家庭内の暴力は「たかがそんなこと」なのか
数々の著名人コメントやインターネットのざわつきを見て、私は思いました。そもそもこの件は、プロ野球監督の話である前に、親子の問題であること。阿部慎之助という1人の親と、18歳の子どもの問題で、そこに「プロ野球監督」「偉大なる選手」という異質な役柄を入れ込もうとするから論点がグチャグチャになり、本質が見えづらくなっている気がするのです。
果たして家庭内の暴力とは「たかがそんなこと」なのでしょうか。報道で、阿部前監督が当時酒に酔った状態であったことも明らかになりました。通常時よりも様々なコントロール機能が麻痺した180センチの屈強な男性に押さえつけられ、投げ飛ばされる。恐怖しかない。それが自分の父親、本来であれば自分を守ってくれるはずの存在に、です。たとえ体に傷はなくても、精神には相当なダメージを負うことは想像に難くない。
それなのに親子というフィルターをかけられた途端、単なる親子喧嘩に矮小化されるのです。ここで「たかが」を使うのであれば、「たかが姉妹喧嘩くらいで」ですよ。たかが姉妹喧嘩で、そこに苦言を呈したら口答えをされ、カッとなっての暴力。その暴力は「たかが」の範疇を軽く超えている。
暴力は美談ではない
「暴力を伴う躾は必要悪」であり「昔はみんなそうだった」という論理もよくわからないんですよね。長く親は躾という名の暴力を美談として語り、運良くそこをサバイブできた子どもは、かつての自分を守るために暴力を「よかったもの」と肯定して記憶する。そもそも「昭和だったら当たり前」なんてこと、ない。令和の子どもは痛がるけど、昭和の子どもは理不尽に叩かれても痛くないし、我慢できた、そんなわけない。
昭和の子どもだって痛くて傷ついて、ある子は感覚を麻痺させ、ある子は抵抗してさらに叩かれ、ある子は自分が悪いと思い込み、ある子はひたすら忘れようとする。私自身が阿部氏のちょっと上のバリバリ昭和の子どもですが、忘れてないですもん。親から叩かれたことを愛だなんて1mmも思いませんもん。今も昔も、親にとって暴力は非常にコスパよく子どもを支配する蠱惑的な手段であることに違いはありません。
