後世になると、将軍の側室は最低でも「旗本の娘」という条件付きであったことが知られるようになるが、家光の時代は庶民の女性が一発逆転でシンデレラになり得るとの“都市伝説”的な逸話が好まれており、そうした大衆のニーズによって創作された物語と見るのが自然だと思う(ただし、本庄氏の系図が信ぴょう性に難があるといわれている点は付記しておく)。

誹謗中傷の的に

 このように桂昌院の親族の子孫は、大名として出世している。だが、その一方、桂昌院本人はさまざまな誹謗中傷の的となってしまった。玉の輿への妬みに加え、「生類憐れみの令」を発案して息子をたぶらかしたやら、従一位という身分相応の官位を賜ったやら、嫉妬が二重三重にも積み重なった結果、大衆の憎悪を一身に受けるのである。

 現代でも、実業家と結婚するなど「玉の輿」の女性芸能人は敵意を向けられ、SNSで批判されることが多い。江戸時代も現代も、嫉妬が向けられる先は、さほど変わらない。

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