しかし、壮大なスケールに拡大した作品の中心にあるのは、古いおとぎ話のような強い構造をもった工藤新一と毛利蘭の物語である。輝く未来を約束された王子が呪いによって姿を変えられ、結ばれるべきお姫様から引き離されてしまう。力と名を失った王子は知恵によって呪いを解き、いつか必ず美しい心を持つお姫様のもとに帰る。それが『名探偵コナン』の中心にある、幼児にもわかる物語の根幹構造である。
劇場版『名探偵コナン』のすべてのオープニングで繰り返される「おれは高校生探偵工藤新一、幼馴染で同級生の毛利蘭と……」から始まる第1話の回想はこの物語の『創世記』であり、この作品が究極的には新一と蘭の物語であることを観客に何度も言い聞かせているのだ。だが、皮肉にも、作品の人気が30年にわたり維持どころか拡大するという事態の中で、二人のハッピーエンドは遠ざかる。
山崎和佳奈の訃報に対して多くのファンの心によぎった「間に合わなかった」という感情は、『名探偵コナン』の人気が上がれば上がるほど結ばれることのできない新一と蘭のパラドックス、その構造の中で工藤新一を待ち続ける毛利蘭を演じてくれた山崎和佳奈が最後までその物語を演じることができなくなってしまった、という痛みが根底にある。
簡単に終わらせられない…『コナン』という特異なコンテンツ
「どれほど人気があっても、『名探偵コナン』はそろそろ完結させるべきだ」という声は、以前からファンの間で存在した。「最終回はすでに考えてある」と語る原作者・青山剛昌本人も、今年の6月21日に63歳を迎え、2015年には入院と手術による休載も経験している。手術は成功し活動は再開しているが、病名は今も明かされないままだ。作家にとって自分の人生の大半を注いだ代表作を未完のままにしたいわけがない。
だが本当に終わることができるのか。この状況がそれを許すのだろうか。日本映画と日本アニメ、そしてその中の『名探偵コナン』という特異なコンテンツの位置を知るほどに、その困難さを考えてしまう。
アニメ映画としての『名探偵コナン』は、世界的、大衆映画史的にみてもほとんど前例のない特異なシリーズである。これだけ長期にわたり、人気を維持するどころか右肩上がりし続けている作品は世界的になく、ここ数年にいたっては4年連続で興行収入130億円を突破している。あのスタジオジブリですら130億を超えた作品は『千と千尋の神隠し』『もののけ姫』『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』の4作品だけなのだがそれに並び、しかもおそらく、今後も毎年続く可能性が高いのだ。
『コナン』シリーズの特異さはその「毎年必ず大ヒットする」という興行の常識を覆す安定性に加えて、収益性にもある。ジブリ作品や近年の『コナン』と近い140億台の興行収入を続けている新海誠作品のエンドロールに並ぶ膨大なスタッフの数、映画の中で投じられている映像コストと比較すれば、業界人ならずとも毎年公開される『コナン』の作画コストが低いというのは否応なくわかる。そしてその高い収益性は日本テレビや東宝、つまり日本の映画産業の根幹を支える企業に還元され、「『コナン』以外の作品」を支える資金源になっているのだ。
『コナン』以外にも興行収入100億を記録するアニメ映画はある。だが、たとえば『シン・エヴァンゲリオン』は完結作であり、『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『チェンソーマン』シリーズはすでに原作が完結している。『ワンピース』は原作が最終章に向かいつつ継続しているが、2022年の『FILM RED』以来の新作発表はされていない。毎年作られ、しかも特典もつけないのに毎年130億を突破する『コナン』に代わって日本映画、日本アニメの収益を支える作品があるのかと言われれば、ないと答えるしかない。『コナン』が完結するということは、それを失うことなのだ。
他人に与える人を「ギバー(giver)」、他人から与えられる人を「テイカー(taker)」と定義するSNSの流行がある。あまり良い区別でないことを前提にして言うのだが、『名探偵コナン』というコンテンツが日本映画にとって圧倒的な「ギバー」、映画界全体に恩恵を与える存在であることは、日本のエンターテインメントを知る人間なら誰もが認めるだろう。
日本各地を舞台にした映画を毎年公開し、日本のみならず海外からも聖地巡礼の観客を呼び込む『コナン』は、映画産業にとどまらない経済効果を生む。一千万人規模のファンダムに他の作品への出会いのきっかけを作るコラボ企画、映画館に負担をかけない特典なしでのGW興行など、経済的にも文化的にも惜しみなく与えることの多い『ギバー』的国民アニメなのだ。
