「何者」とはナニモノか

 さて、「あの人、〇〇なの」と、誰かが言ったとする。〇〇に入る言葉が医師、弁護士、公認会計士、経営者、だった場合と、それ以外の職業や肩書が入った場合では、聴き手が「あの人」に抱く印象は変わる。士業や経営者の場合、先述の「すごい人=何者かの人」だと思われる。

 職業に貴賤なし、つまりどんな仕事も社会に必要で、仕事の内容と従事する人間の尊厳や価値はイコールで結ばれるものではない。ではあるのだが、現実には、職業には収入、権力、社会的影響力に違いがある。

 医師を例に考えてみよう。医師は、難関な入学試験に合格して医学部に入り、最短でも6年勉強して国家資格を取り、高給をもらって働くゆえ、希少価値のある存在だと捉えられる。社会的地位の高さが「何者」とみなされる要因だ。ざっくり言うと「頭が良くてすごい仕事をしている」という感じ。会社内だと、課長、部長などもそうだろう。いわゆる肩書と呼ばれるもの。

ADVERTISEMENT

 次に、主に女性が「マスト・ハブ」の強迫観念に駆られがちな肩書に、「妻」や「母」がある。ひと昔前の価値観では、付帯すると社会から一人前と承認されやすかった属性であり、いまだ機能する場面はある。

 難関な試験を突破した、資格を手に入れた、人を助ける仕事をしている、雇われの身ではなく従業員を雇用して社会に貢献している、ほかの人にはできない仕事をしている、子や配偶者に必要とされる存在として活躍している――。これらは、肩書を持つ者の自認である。しかし、そういった自己感覚だけでは成りえないのが「何者」だ。

 著名な芸能人、人気のあるプロスポーツ選手、教科書に載るような作品を創った芸術家、といった一目でわかる「何者」には肩書すら不要だが、やはり「類稀な才能がある」、「よく稼いでいる」、「多くの人にはできない仕事をしている」、といった印象を持たれ、「何者」と認識される。

 つまり、「何者」認定には常に、他者からの羨望が混じった承認が必要なのだ。個人に達成したい目的があったとて、その達成のために行う純粋な努力だけでは、どうにも獲得できないのが「何者」だ。山奥でひとり、納得のいく作品が作れた芸術家がいたとしよう。それが世間に発表され、広く知られて他者に存在を認められるまで、その人は何者でもない。

 にもかかわらず、社会的な「何者」への承認欲求は、いつの間にか「自分には価値があるのか」という存在不安と結びついてしまう。自分の力では決められないことなのに、自分の努力や能力が不足しているせいだと思ってしまうのは不健全ではなかろうか。