上昇の難易度は上がっているのに、自己責任と自己実現という表裏一体の重しを背負わされた挙句、上昇できなかった責任は個人に返ってくる。これをひとりひとりの能力の問題として捉えるのは酷だ。紆余曲折を経て得た歪な自由とトレードオフで、何者かでなければ価値がないと思わされているだけなのだから。
みんながみんな、谷亮子にならなくていいはずなのに
世の中は、親世代のそれとずいぶん様変わりした。地域、大家族、終身雇用の会社といった旧来型の共同体は消滅し、「とりあえずそこにいるだけ」でも受け入れてもらえることは難しくなった。旧来型の共同体が失われたことで得られた自由もある反面、誰もが自分がそこにいる価値があると証明しなくてはならなくなった、とも言える。
旧来型の共同体が解体されるのと相まって、今度は「妻」や「母」だけでは不十分だと思わされるフェイズにも入った。これも、家族や地域単位での付き合いや貢献だけではもの足りない、共同体の外に出て属性とは異なる活動がしたいと自ら希望する人の話ではない。「母や妻だけの私は不十分」と思わされている人の話。いまはとにかく、個人の能力を過剰に問われる時代なのだ。
2003年に結婚した柔道家の谷亮子さん(旧姓・田村)は、2004年の五輪前、「田村で金、谷でも金」と宣言し、アテネオリンピックで金メダルを獲得した。出産後も「ママでも金」を有言実行し、2007年の世界選手権で優勝した。
女性が結婚や出産で競技者として弱くなったとは言われたくなかったのだろう。属性で活躍が制限されることはないと、一流のアスリートが世間に証明することは素晴らしい。
と同時に、誰もがそうでなくてはならないと捉えてはならない。そもそも谷亮子さんは選手時代に五輪5大会でメダルを獲得し、世界選手権6連覇を成し遂げた、文字通り歴史的な柔道家だ。特例中の特例である。
夢を叶えるための艱難辛苦は厭わない人にとって、谷亮子さんが開いてくれた扉はかけがえのないものだ。しかし、そうではない人が「何者でもない私」を責めるのは無理がある。「なるほど、扉はあそこまで開いたわけね。世の中にとっていいことだ。私の人生には、直接関係ないけれど」と捉えるだけでオッケーなのに。