増え続ける「何者」

 近年、インフルエンサー、アンバサダー、ユーチューバー、〇〇研究家など「何者」のバリエーションは無限に増えた。「すごい」を端的に表すのは数字である。フォロワー数合計〇万人というやつだ。一個人に対し、数字が存在価値を提示してくる異様な時代を生きていることを、私たちは忘れてはいけない。

「何者」のバリエーションが増えた結果、何者かであるほうが当然、つまりゼロに近い状態で、「何者でもない」をマイナスだと捉えてしまい、不安は膨らんでいく。士業やお金持ちだけが憧れの存在だった時代には、ここまでの焦燥は喚起されなかったはずだ。

 もっと昔。士農工商といった身分制度があった時代には、なかった悩みだろう。だって、どう頑張ったって身分は生まれた時に決まっていたのだから。貧乏な武士や富豪の商人は存在したが、個人の努力で達成できるソーシャル・モビリティ(社会的流動性)は、おそらく江戸時代にはなかったはずだ。少なくとも、現代のように「努力次第で誰でも上昇可能」という発想は一般的ではなかっただろう。

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イラスト:kedamasugoine

 翻って現代。頑張ればなんにでもなれる、とされている。社会階層(職業、所得、教育など)の移動は、個人の努力で可能だと。否定はしない。報われる努力は存在する。成り上がっている人も存在する。だが、何者かになれる世界=何者かにならなければ価値がない世界、ではないはずなのだ。だって、自分以外の誰かが「人間は努力次第でなんにでもなれる。だから、何者にもなれないのは私の努力不足である」と言ったら、多くの人が違和感を持つだろう。そんな単純な話ではないと。

 やりたいことがあり、特定の分野で名を成したいというなら、何者かになるのを目指すのは健全だ。自分自身が、そこまで行くことを望んでいるのだから。

 しかし、「何者かにならなければ」と急き立てられている人を見ると、それは果たしてあなた個人が抱える問題なのかと問いたくなる。

「何者かにならなければ」のあとに続くのが「私には価値がない」だとするならば、その価値は社会における存在価値を意味するはずだ。つまり強迫観念に駆られている人は、「努力次第でなんにでもなれる」を、「努力不足のまま何者にもなれないと、社会から取り残される」と解釈している。