計算は数字を破壊する
調べてみると、調査員が行なっていたのは「長谷川式簡易知能評価スケール」に基づく診断法だった。他にも質問項目があるので、調査員が帰った後、私が質問してみることにした。
――100引く7は?
計算の問題。答えに対して「それからまた7を引くと?」と順に質問していく。最初の答えが不正解なら質問は打ち切るというルールだ。
「100引く7?」
父は驚いたような表情を浮かべた。
――そう、100引く7。
「100引く7って、こう、引くのか?」
綱引きのような仕草をして父はたずねた。
――そう、引く。
「じかに?」
真剣な面持ちで父は私に訊いた。
――じかにって?
「だから、こう、じかに引いちゃうのか?」
力強く引く父。
――そう、じかに引く。
「いいのか?」
――いいのかって……。
「それでいいのかって、訊いているんだよ」
――いいです、っていうか引いてみてよ。
「じかに?」
――じかに。
「お前ね、じかにって簡単に言うけど、そりゃ大変だぞ」
――大変なんですか?
かしこまってたずねると父はうなずき、遠くを見つめて「そりゃ大変だ」と溜め息をついた。これもまた「取り繕い反応」と考えられるが、父の顔をじっと見ていると「じかに引くのは大変」というのも一理あるような気がした。通常は数字をじかに引くのではなく、物体などに仮託して個数や金額として引いたりするわけで、数字から数字を「じかに」引くのは数字自体の存在を破壊するようである。もしかすると引き算に無理があるのかもしれないので、私は「じゃあ、100足す7は?」と質問を変えてみた。
「100足す7。わかるよ」
微笑む父。
――いくつ?
「100足す7だろ。それはわかる。わかるけどそれをどこに持っていくんだ?」
――いや、持っていかなくてもいいんだよ。
「お兄ちゃんはそう言ったって、そういうわけにはいかないだろう。足されたほうの身にもなってみろよ」
そこまで言うと、「取り繕い」というより「言い逃れ」である。いい加減にしてくれと言いたくなるのだが、認知症介護の基本は次の通り。
言うことを否定せずに話を合わせる
(鳥羽研二著『名医の図解 認知症の安心生活読本』主婦と生活社 2009年)
怒ってはいけない。否定せずに話を合わせることが肝要なのである。私の場合、ノンフィクション作家という仕事柄、インタビューが日常的な業務で、ほとんど無意識のうちに相手に話を合わせてしまう。何かを聞けば反射的に「へぇー」「ああ、そうなんですか」と応える。たとえ知っていることでも感心するし、さっき聞いた話でも初めて聞いたかのように驚いたりする。一種の癖になっているので、ことさら「認知症の人を安心させるような演技をする」(同前)までもなく、父の反復する話にもその都度「へぇー、そうなんだ」と感心していた。感心して「へぇー、そうなんだ」と言うのではなく、「へぇー、そうなんだ」と言うと感心できるのだ。
無責任に計算するな。
父はそう言いたいのかもしれない。ハイデガーによれば「存在」とは「それ自身」(前出『ヒューマニズムについて』)を意味する。100は100それ自身、7も7それ自身。それぞれ自身で自存しているわけで、それを引いたり足したりするという行為には責任が伴う。単純に見える計算にも責任問題が隠れており、私はつい「確かにそうだね」とうなずいてしまったのである。
