「空気からパンをつくる」
不知火海に面する水俣は、かつて製塩業が盛んだった。ところが、日露戦争中に戦費調達のために塩の専売制が導入されると、水俣の塩田は生産性が低いとして廃止されてしまった。このままでは村の経済は立ち行かない。そのため、地元の有志たちは工場用地の提供や港湾改築などで便宜を図るとして、新興の化学工場を熱心に誘致したのだ。
この熱意に動かされた野口は、送電ロスを承知のうえであえて遠隔の水俣への進出を決断し、1908(明治41)年3月、日本カーバイド商会を設立して工場を建設(カーバイドについては後述)。同年8月、これと曽木電気を改称するかたちで日本窒素肥料を設立する。この会社の流れを継いだ企業が、戦後の1965(昭和40)年にチッソと改称することになる。こうしてチッソと水俣の切っても切り離せぬ関係がはじまった(以後、同社はチッソと呼称する)。
創業直後のチッソは、かならずしも順風満帆ではなかった。せっかく化学肥料を生産しても、コスト面で輸入品に太刀打ちできなかったからだ。だが、ほどなく転機が訪れる。1914(大正3)年7月、第一次世界大戦が勃発すると、輸入肥料の価格は高騰。野口はこれを好機とみて、ただちに肥料の増産へ踏み切り、莫大な利益を手にしたのである。
さらにチッソは、第一次世界大戦後、イタリアで開発されたカザレー法をいち早く導入し、1923(大正12)年10月、宮崎県北部の延岡に新設した工場でアンモニアの工業的合成に成功する。
先行するドイツのハーバー・ボッシュ法が有名だが、いずれも空気中にほとんど無尽蔵にある窒素を水素と反応させ、肥料の原料となるアンモニアを大量生産する技術だった。これは「空気からパンをつくる」と言われるほど画期的だった。さらにアンモニアは爆薬の原料にもなった。そのため日本でも導入が急がれたが、新興企業のチッソが他社に先駆けてこれを成し遂げたのだ。この成功により、同社の肥料価格は格段に下がった。
このように野口の大胆な決断と高度な技術力が両輪となり、チッソは日本を代表する化学メーカーへと飛躍していくことになる。
チッソの飛躍を決定づけたのは、1924(大正13)年に下された朝鮮進出の決断だった。
チッソの“勝利の方程式”は、水力発電所をつくり、その電力で化学工場を稼働させることにあった。ただ、日本本土では電源開発に適した場所が限られていた。そこに、朝鮮進出の話が持ち込まれる。朝鮮にはまだ大規模開発の余地が残されており、豊富な水資源から安価な電力を得られる可能性があった。野口は持ち前の果断さでこれに乗った。植民地では、住民を強制移動させるなど、土地収用が本土より進めやすかったことも大きかった。
朝鮮半島北部には、中国との国境地帯を流れる鴨緑江や豆満江という大河がある。チッソは鴨緑江支流の赴戦江や長津江、虚川江に発電所をつぎつぎと建設し、その電力をもとに日本海に面する興南に巨大な化学工場群を築いた。興南は現在の北朝鮮・咸興(ハムフン)にあたり、平壌と並ぶ冷麺が名物の地としても知られているところである。
興南には社宅や病院、学校などが整備され、最盛期には18万人を抱える巨大な化学都市へと発展した。日本人向け社宅には水洗便所が備えられ、暖房や温水も供給されるなど、寒冷地であることを感じさせない先進的な住環境だったという。優秀な若手技術者たちはここへ集められ、日夜、技術開発に没頭した。
さらに野口は、“勝利の方程式”をより巨大化させる。今度は、鴨緑江本流そのものに巨大ダムを築こうというのだ。日中戦争が勃発する1937(昭和12)年に着工した水豊ダムは、敗戦前年の1944(昭和19)年に完成した。計画出力は約70万キロワットで、当時世界最大級の水力発電所だった。
同年、野口は死去するが、このころチッソは戦時下の軍需生産にも支えられ、日本有数の化学企業へ成長し、「日窒コンツェルン」と呼ばれる新興財閥として重きをなしていた。
ちなみに、朝鮮の主力工場があった咸興は、現在でも北朝鮮の化学工業の集積地となっている。チッソの設備がそのまま残っているわけではないにせよ、その産業基盤が植民地時代に築かれたことはまちがいない。
北朝鮮はウクライナ戦争でロシアに弾薬を供給しているとされる。もしかすると、そのなかには咸興で製造されたものも含まれているかもしれない。水豊ダムにいたっては、北朝鮮の重要電源として現在も稼働を続けている。
チッソの歴史は、さまざまな回路を通じて今日の世界ともつながっているのである。
※本記事の全文(11000字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(辻田真佐憲「エネルギー小国の光と影」)。
全文では、以下の内容が語られています。
・仇となった“勝利の方程式”
・石炭時代の象徴・軍艦島
・オイルショックがもたらしたもの

