『TOKYOタクシー』には、車が隅田川を通りかかると、すみれが東京大空襲のさなか、人々が大挙して川に逃げてくるなかで父親と離れ離れになったつらい思い出を語る場面もある。倍賞自身には空襲の記憶はないが、母から焼夷弾が落ちたときの話を聞かされたという。
日中戦争のさなかに生まれた
倍賞が生まれたのは日中戦争中の1941年6月で、東京の市電(現在の都電)の運転士だった父は彼女が生まれて8日後には召集され、戦地に渡っている。それから半年を経ずして太平洋戦争が始まった。戦争末期の1945年、4歳になった倍賞と2歳上の姉、3歳下の弟は母に連れられて、その実家のある茨城県の片田舎に疎開する。
父は終戦の翌年に復員して運転士に戻ったが、終戦直後の東京は深刻な住宅難で一家で住むことはかなわず、父は東京に単身赴任しながら茨城に住む家族にときどき会いに来るという生活をしばらく送った。この間、倍賞に妹と末の弟が生まれている。5歳下の妹は同じく俳優となる倍賞美津子である。
倍賞は「下町の太陽」をはじめヒット曲を出した歌手でもあり、現在も精力的にコンサートを行なっている。じつは歌のほうが俳優よりキャリアは長い。疎開先の茨城で入学した小学校で学校放送が始まると、マイクの前で歌う役に多数決で選ばれた。このとき「木の葉のお船」という童謡を歌ったという。
東京・北区に親子7人で暮らす
小学4年生になった1951年に東京に戻り、北区滝野川の6畳と3畳だけの小さな家に親子7人で住み始める。そのころ、姉と一緒にNHKラジオの『子供のど自慢』に出場した。あがってしまいうまく歌えなかった姉に対し、倍賞は物怖じせず淡々と唱歌を歌い合格する。このときの審査員の一人だった作曲家の百瀬三郎から自身の主宰する「みすず児童合唱団」に誘われ、入団したのが、歌手になるきっかけだった。
合唱団の稽古場のあった表参道までは、父が都電の運転士だったので家族パスで通えたが、両親の負担は相当のものだった。母は内職や質屋通いをしてやりくりした。娘には言わなかったが、合唱団の地方公演で持っていくグリーンのトランクも、母が自分の着物を質屋に入れて買ってくれたものだったようだ。
中学に上がるころから声変わりしたこともあり、合唱団をやめた。その後は歌の個人レッスンを受けたものの、歌手になるつもりはなかったという。将来は教師にでもなろうと漠然と考え、中学3年のときには都立高校の受験勉強に没頭した。だが、両親は根を詰める娘を見て、万が一受験に失敗したときを心配したらしく、合唱団の先生とも相談したうえ、松竹音楽舞踊学校の受験を勧めてきた。この学校は、当時、宝塚歌劇団などと並び人気を集めていた松竹歌劇団(SKD)の養成学校である。
