そんなことなど彼女はすぐ忘れてしまったが、渥美はしっかり覚えていて、後年、「おまえ、監督に駄々こねていたじゃねえかよ」と言われたという。なお、倍賞が映画デビューしたこの年には、山田洋次も松竹大船撮影所に入社8年目にして短編『二階の他人』で監督デビューしている。
翌1962年には『酔っぱらい天国』に出演、このとき渋谷実監督と出会ったことも俳優として成長するうえで大きかったという。ものすごく厳しい監督で、《忘れられないのは、主演の笠智衆さんとのシーンで、何十回とやり直しをさせられたこと。それでも、もうできません、と投げ出さなかったのは、自分が「できない」ということが、嫌だったんだと思います》と倍賞は振り返る(『暮しの手帖』2023年10・11月号)。笠はのちに『男はつらいよ』で御前様こと帝釈天の住職を演じ、晩年まで彼女と共演することになる。
こうした経験を重ねることで、翌年、雑誌に寄稿した手記では《去年あたりから、映画のおもしろさと難しさがわかるようになって、演技者としての私の前に、さまざまの困難が出てきた事に気づきました。難しいこと、辛いことが現われると、またぞろ、私にはファイトが湧いてくるのでした。いつの間にか、最初はすすめられるままに出演した映画に対し、すごい意欲が出るようになっていたのです》と書くまでになった(『婦人公論』1963年4月号)。
「我々が目指す世界でちゃんと芝居してくれる女優だ」
倍賞が映画にデビューすると、松竹の若いスタッフたちは生粋の庶民性を漂わせた彼女の出現に色めき立ったという。山田洋次いわく、スター女優といえば化粧をして美しく装っていた時代に、倍賞のようにサンダル履きでどぶ板を踏んで駆け出す娘の役が似合う、あふれる生活感を身につけた女優は新鮮だった。《倍賞ってのはいいねえ。これこそリアリズム。我々が目指す世界でちゃんと芝居してくれる女優だ、と撮影所の食堂でコーヒーを飲みながらみんなでそんな話をしていたね》と山田は振り返っている(『キネマ旬報』2025年11月号増刊)。
その倍賞の初主演映画を1963年、山田が監督2作目で手がけることになる。それが彼女が前年にリリースしたデビュー曲を題材にした『下町の太陽』だった。このときの会社側が要請したのはヒット曲が次々と歌われる「歌謡映画」だったが、山田は反発して、高度成長期の光と影を背景にした真面目な作品に仕立てた。当然、会社には評判が悪く、脚本を読んでもらった師匠筋の監督にも「これはあまりよくない」と言われ、ひどく落胆したまま撮影に入る。

