度胸試しのつもりで受けて合格
本人は最初は気乗りしなかったが、1000人以上受験するなかで合格するのは60人あまりしかいないと聞くと負けず嫌いな性格をくすぐられ、度胸試しのつもりで受けて合格する。
入学してからは、授業料以外にもシューズなど備品を買うためますます両親の出費はかさんだ。そこで母は倍賞には内緒で保険外交員のパートを始め、姉も中学を卒業するとすぐ就職して家計を助けた。思えば、『男はつらいよ』でさくらが家族のため家計をやりくりしたりする姿には、案外、倍賞の母の面影が反映されているのかもしれない。
家族の期待に応えるため倍賞は努力するほかなく、毎朝誰よりも早く登校してピアノの練習をした。通学のバスのなかでタップダンスの練習をして車掌に叱られたこともあったという。猛練習で足が血だらけになり、家のなかを這って歩くほどだった。
松竹音楽舞踊学校には卒業までの3年間、半年ごとに試験があった。倍賞にはどうしても勝てない同期がいて成績はずっと2位だったが、最終試験では首席をとる。卒業してSKDに13期生として入団すると、同歌劇団の名物レビュー「東京踊り」のフィナーレでは、ステージ上の大階段から生徒たちを引き連れて下りてくるバトンガールの役を担った。
「映画なんて大嫌いだ!」
こうしてSKDのトップスターへの道を登り始めた倍賞に、松竹大船撮影所から声がかかる。同撮影所では映画監督・中村登が次回作『斑女』(1961年)のために新人女優を探していたところだった。そこでSKDの新入団生のなかから倍賞に白羽の矢が立ったのである。
いざ撮影現場に入ると、方々から指示が出され、誰が監督かわからないありさまだった。一つのシーンを撮り終わっても、次々に別シーンの台本が渡されてなかなかSKDに帰れない。そのあいだに舞台で得た役を代役をしている人に取られてしまうのではないかと不安な毎日を送る。大船撮影所から江の島に足を延ばすと、海に向かって「映画なんて大嫌いだ!」「早くSKDに帰りたいよーぉ!」などと叫んでは憂さを晴らしていたという。
そんな倍賞の気持ちをよそにその後も映画出演は続いた。2作目の『水溜り』(1961年)には町工場の臨時工役で出演、そのワンシーンで、のちに『男はつらいよ』で寅さんを演じる渥美清と初共演する。工場をクビになった彼女が公園で男たちからお金を取ってスカートをまくり上げて見せるというシーンで、渥美はそれをカメラで撮ろうとする客の役だった。さすがに20歳になる直前の倍賞には恥ずかしくて、「とてもやれません」と難色を示し、結局、スタッフたちが周囲から見えないように照明のレフ板で囲んで撮影を続けたとか。

