「漢委奴国王」の金印。歴史の教科書で誰しも一度は目にしたことがあるだろう。
おさらいすると、この金印は弥生時代の紀元57年、古代中国の後漢の皇帝・光武帝が、福岡地方にあった奴国の王へ授けたとされるものだ。
では、その金印が見つかった志賀島とは、いったいどんな場所なのだろうか。名前は知っていても、実際に訪れたことのある人は少ないはず。
実はこの島、大潮の時にしか渡れない海神の聖地や、元寇の激しい戦いの記憶を今に伝える場所でもある。そこで今回、金印出土の地を目指して福岡県の志賀島へ向かった。
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全国的にも珍しい地形
志賀島は博多湾の入口に位置する小さな島で、面積は約6平方キロメートル、周囲は約10キロメートル。だが、この島の特徴は大きさではない。
地図を開くと、その理由がよくわかる。福岡市の西側から海へ向かって細長く伸びる1本の陸地。その先端に志賀島はある。
実は志賀島は、砂や小石が堆積してできた砂州によって本土とつながった「陸繋島(りくけいとう)」。全国的にも珍しい地形として知られている。
この特異な姿は古代から人々の目を引いていたようだ。
和銅6(713)年、朝廷は諸国に風土記の編纂を命じた。残念ながら筑前国のものは失われているものの、その一部は鎌倉時代に編纂された『釈日本紀』に引用されている。
それによると、第15代応神天皇の母・神功皇后が三韓出兵のために九州を訪れた際、従者の小浜という者を島へ遣わした。
島から戻った小浜は「この島と打昇浜とは近く相連接(あいつづ)けり。ほとんど同じき地というべし」と皇后に報告したという。引用文は「よりて近島(ちかしま)という。今、なまりて資珂島(しかしま)という」と続く。これが志賀島の地名の由来になったと伝えられている。
開放感が楽しめる「海の中道」
本土と志賀島を結ぶ細長い砂州は、「海の中道」と呼ばれている。
海の中道は全長約8キロメートル、最大幅約2.5キロメートルに及ぶ巨大な砂州。その両側には砂浜が続き、左手には博多湾、右手には玄界灘が広がる。
この日はあいにくの曇り空だったが、それでも景色の開放感は十分。その名の通り、心地良い潮風を受けながら海の中をゆくようだ。
島の入口に鎮座するのが志賀海神社。
創建年代は不詳だが、『万葉集』にもその名が見える古社として知られる。古くから航海安全の神として信仰を集めてきた。全国で祀られる海神(わたつみのかみ)の総本社である。
鳥居へ向かうと、若い女性2人組が何やら身体に砂を振りかけていた。


