志賀島には金印だけでなく、神功皇后ゆかりの地が島中に点在しているのだ。
実は戦前まで、志賀島は「金印の島」というよりも、「神功皇后伝説の島」として知られていた。
戦後になると、神功皇后の三韓出兵は侵略を正当化する物語として扱われるようになり、語られる機会は少なくなる。一方で、金印は歴史遺産として広く注目を集めるようになったのである。
このように、志賀島は神功皇后の軍が三韓へ向けて船出したという伝説で知られる島。しかし、この島から海へ向かった軍勢がいたばかりではない。
鎌倉時代には、海の向こうから元軍の大船団が押し寄せた。蒙古襲来である。
日本軍はその首を片っ端からはねてしまった
そこで次に訪れたのが、志賀島の南西部に位置する「蒙古塚」。
金印海道沿いの一角に設けられた敷地には、海へ向かって供養塔が静かに建っている。この場所は、かつて「首切塚」とも呼ばれていたという。
文永の役のとき、逃げ遅れた元軍の船が一艘、志賀島で捕まった。どうやら座礁したらしい。弓も鎧も捨てて手を合わせ、命乞いをする敵兵たち。ところが、日本軍はその首を片っ端からはねてしまったのである。
案内板によれば、現在の供養塔は昭和2(1927)年、日蓮宗の僧の提唱によって建立されたという。
穏やかな海を前に立っていると、とても激しい戦いの舞台だったとは信じがたい。しかし、この海は神話だけでなく、現実の戦争も見つめ続けてきたのである。
蒙古塚を過ぎると、何の前触れもなくまた一基の石碑が姿を現す。
「漢委奴國王金印發光之處」
そう刻まれたこの場所こそ、金印の出土地である。大正11(1922)年に建立された記念碑で、その背後の小高い丘には「金印公園」が整備されている。
金印が出土した具体的な場所は、この石碑から海に向かって右斜め前あたりと推定されている。現在は「金印海道」が通る、何の変哲もない舗装道路だ。
金印が発見された江戸時代、この一帯には田んぼが広がっていた。
発見者の百姓・甚兵衛の口上書とされる記録によれば、水田の溝を補修していた際、小石が積まれた下から2人がかりで持ち上げられるほどの大石を見つけ、その石の下から金印が現れたという。金印はその後、福岡藩の役所へ届けられた。
では、なぜ奴国王の金印が志賀島で見つかったのだろうか。



