女性は鳥居の奥へ立ち入らないほうがよいという言い伝え
島をぐるりと一周する県道542号、通称「金印海道」をゆく。
志賀島の北端に位置する勝馬(かつま)。江戸時代に編纂された『筑前国続風土記』によれば、神功皇后が三韓出兵から凱旋した際、この地で皇后に付き従っていた者の馬が勝利を喜んでいなないたことから、「勝馬」の名が付いたという。
この勝馬地区には、志賀海神社の沖津宮が鎮座している。
ただし、このお社はいつでも気軽に参拝できるわけではない。沖合の小島に祀られているため、普段は潮に阻まれて近づくことができないのだ。干潮のとき、しかも最も潮の引く大潮のときにだけ現れる道を渡るしかないのである。
そうそうタイミングよくはいかないだろうと、取材前は海岸から小島を眺めるだけのつもりだった。
ところが、取材当日の15時20分。偶然にも大潮の干潮時刻と重なった。
これは渡るしかない。
とはいえ、潮が引いたとはいっても、スニーカーでは簡単に渡れない。岩場の間には海水が流れ、潮干狩りに来た人たちは皆、長靴を履いている。
やはり無理か。準備不足だったか。せめてサンダルを持ってくるべきだった――。
そう思って何度も引き返しかけた。それでも、海水の届かない岩を一つひとつ探しながら飛び移り、慎重に前進する。
そして、ようやく対岸の砂浜へスニーカーの足を下ろしたとき、ちょっと感動。
この小島は、古代に海人を率いた阿曇氏の発祥の地とも伝えられている。
島には白い鳥居が立ち、その奥には木々がこんもりと茂る。ほかに目立った物はない。女性は鳥居の奥へ立ち入らないほうがよいという言い伝えもあるそうなので、鳥居の前で手を合わせるだけにした。
それだけで十分だった。何より、潮に阻まれることなく、自分の足でこの島に渡れたことが嬉しい。
今も橋がない沖津宮の小島
もっとも、かつては志賀島そのものも、潮が満ちると徒歩で渡れなくなったという。現在の志賀島橋が完成したのは昭和5(1930)年。それ以前は、島への往来も潮の満ち引きに左右されていたのである。
それに比べ、この沖津宮の小島には今も橋は架けられていない。昔と変わらず、潮が引いたときだけ人を迎え入れてくれる。
干珠満珠の珠の伝説を思い出す。
飛行機はもちろん、大きな橋を架ける技術もなかった時代。海は人々の暮らしを左右し、ときに行く手を阻み、ときに道を開いた。潮の満ち引きを自在に操る珠の伝説も、そんな自然への畏敬の念から生まれたのかもしれない。
沖津宮の小島から志賀島を望むと、左手には舞能ヶ浜、右手には下馬ヶ浜が広がる。
舞能ヶ浜の名は神功皇后が出兵の際に先勝祈願の舞を舞ったことに、下馬ヶ浜の名は出兵から帰還した際この場所で皇后が馬を下りたことに由来する。
さて、お気づきだろうか。





