身体に砂を振りかけていた理由は?

 何だろうと思って近づくと、「御潮井(おしおい)」と呼ばれる清め砂がそこに設けられていた。

志賀海神社。「御潮井」が設けられている

 左、右、左の順に振りかけるのが作法らしい。やってみたものの、慣れないせいで砂が襟元から服の中へ入り込んでしまった。首筋をもぞもぞさせながら石段を上る。

志賀海神社(社殿)

 社殿でお参りを済ませて右手を見ると、何もない場所に鳥居が立っている。鳥居の向こうはそのまま玄界灘へと続く。視界が開けていて清々しい。遥拝所が設けられているのだ。ここから対岸にある摂社・大嶽神社、末社・小嶽神社を拝むことができるそうだ。

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志賀海神社(遥拝所)

 さて、問題はその遥拝所の一角である。

 垣で囲まれ、恭しく置かれた2つの石が目に入った。「亀石」と呼ばれるものらしい。なるほど、言われてみれば表面がすべすべで、2つの甲羅が仲良く並んでいるようにも見える。

志賀海神社(亀石)

 説明板によると、神功皇后が三韓へ出兵する際、黄金色の亀に乗った志賀明神と勝馬明神という2柱の神が現れたという。その神々は皇后に、干珠満珠(かんじゅまんじゅ)の珠を授けたと伝えられている。

 干珠満珠とは、海に投げると潮の満ち引きを自在にコントロールできる魔法の珠である。神功皇后はこの珠を使って敵兵を退け、戦に勝利した。

 この神功皇后伝説で重要な役割を担うのが、志賀島ゆかりの阿曇磯良(あづみのいそら)。

 長年海底に住みついたことにより顔や体に貝や藻がたくさんくっついた姿を本人は恥じていたとか。そんな磯良が海神(龍神)から干珠満珠を借り受け、皇后へ献上したとも伝えられている。このため、志賀明神と阿曇磯良は同一視されることもあるようだ。

 そして、阿曇磯良の子孫とされるのが阿曇氏。志賀海神社の宮司家である。

 阿曇氏は航海や漁労に優れた海人の一族で、古代には海上交通を掌握し、大きな勢力を築いた。また、海神を祀り、航海の安全を祈る役割も担っていたという。

 この志賀海神社の宮司家に伝わる古文書をもとに、金印の出土地が推定されたとされる。

 江戸時代の天明4(1784)年、地元の農夫が金印を発見した際、当時の宮司に相談を持ちかけたであろうことは想像に難くない。

 そんなわけで、志賀海神社を後にし、本来の目的である金印の出土地へ歩を進めよう。