「任意引退同意書」という“縛り”

 だから野茂は、リスクヘッジの身分保障として「複数年契約」を要求した。それでも球団側はあくまで「野球協約にはない制度」と拒否。着地点が全く見えない、平行線の続いた都合4度の交渉の中で、野茂は球団側から出された「任意引退同意書」にサインしたという。

 それは交渉決裂、退団という最悪の流れになっても、野茂の意志だけでは日本の他球団には行けないという“縛り”を球団側がかける意味合いがあった。任意引退の場合、国内では近鉄の容認がなければ他球団への移籍はできない。しかし、米国に渡れば「unconditional release」の扱い、つまりはフリーエージェント(FA)の立場で、米国全球団を対象とした直接交渉、移籍に関しても完全に自由になる。

©西山和明

 それが野茂にとって、夢の世界へ旅立つために必要な“パスポート”となった。

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「不安は、全くありません。球団に認めてもらったし、すごく理解してくれた。本当に感謝しています。これでスッキリしましたし、スッキリした形で行ける。よかったです」

 当時、サンケイスポーツ大阪の「猛牛番」だった私は、大阪から東京へと急きょ、取材の舞台が移ることになった。

代理人・団野村の動向もマーク

 野茂が東京を拠点に練習を行い、個人トレーナーもつけていることも分かった。野茂を獲得したいというメジャー球団が、野茂との交渉に入るための前段階である「身分照会」の手続きが取られるのも、日本野球界の“法の番人”ともいえるコミッショナー事務局を通してになる。さらには、野茂のメジャー挑戦の“仕掛け人”でもある代理人・団野村の動向もマークする必要があった。

 ただ、当時の私にはメジャーに関する知識も乏しく、正直に明かせば、球団名を聞いたところで、その球団がアメリカン・リーグに属しているのか、それともナショナル・リーグなのかも区別がつかないようなレベルだった。野茂や団野村につながる親しい関係者へのコネがあるわけでもなく、それこそ丸腰のプロ野球記者1年目だった私は、断片的な、わずかな情報だけを頼りに、空振り覚悟で、とにかく動き回るしかなかった。

 1995年の手帳を繰り直してみると、当時のバタバタぶりが蘇ってくる。