SNSでのレシピ投稿が話題を呼び、現在は数々の料理本を手がけるなど幅広く活躍する料理研究家の長谷川あかりさん。7月30日に刊行される自身初のエッセイ『タコ セロリ アボカド』では、半生を鮮やかな料理の記憶とともに振り返っている。

 ここでは本書より一部を抜粋。時代が移り変わっていく中で、長谷川さんが大事にしたいと考える、家庭料理との付き合い方についてお届けする。「夫が大喜びした」とレシピを紹介することに、違和感を覚えるようになった理由とは……。(全5回の5回目)

長谷川あかりさん ©平松市聖/文藝春秋

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誰のために作るのか

 最近よく思う。誰かのために料理すると言いづらい時代になったな、と。

 本来それは悪いことではないはずなのに、いつの間にか「作らなければならない」という強制力として受け取られてしまうことがあるからだ。古い家族観の中で積み重なってきた重苦しさと相まって、「誰かのために」という言葉自体が、自己犠牲を強いる拒絶感に繫がってしまうことさえある。

 一方で、誰かのために作ることでやる気が出たり、張り合いを感じたりする側面もあると思う。誰かに向けて作り「おいしいね」と言い合いながら食べる時間。その喜びが自分自身を満たしてくれる感覚は、決して失われたわけではないはずだ。

 レシピの発信を始めたころは、そこまで深く考えていなかった。SNSでも「夫が大喜びしたメニュー」といった書き方で料理を紹介していたし、実際に夫が喜んでいたのは事実だった。けれどそうした発信を重ねるほど、自分の中に少しずつ違和感が溜まっていった。受け取る側も同様だったようで、家族や誰かのために料理をすることに、想像以上に多くの人がしんどさを感じていると気づかされた。日々家事や仕事に追われる人にとって、「誰かのため」というメッセージは、自分を後回しにして人に尽くさなければならないとプレッシャーになってしまう。伝え方は本当に難しい。

 今の私はたまたま料理を仕事にできていることもあり、キッチンに立つタイミングを自分で選べる状態にある。できないときは「今は何もしません」と後ろめたさなく言えるし、自分でもそう割り切っている。だからこそ「夫に作ると喜ぶ」という言葉が、人によっては「喜ばせないといけない」という圧になってしまう可能性に無自覚だった。そのことに気づいたときは、申し訳なさで頭を抱えてしまった。