「あの爆発的な喜びは一生忘れない」初めて読まれた投稿

 もうひとつ、星野にとって重要な番組が、『レディクラ』こと『岸谷五朗の東京RADIO CLUB』(TBSラジオ)だ。

 岸谷五朗といえば、いまや押しも押されもせぬ名俳優だが、この番組が始まった1990年当時はまだまだ駆け出しの若手俳優のひとり。いや、「若手芸人」というイメージさえあった。1983年に三宅裕司が主宰する劇団スーパー・エキセントリック・シアターに入団した彼は、87年にその劇団の若手メンバー寺脇康文、山田幸伸と結成したユニット「SET隊」としてコントなどお笑い的な活動をしていたからだ。爆笑問題・太田光が、「よく一緒になっていた“同期”」などと語る所以だ。そうしたジャンルを越える活動をしていたことも星野が惹かれた理由なのかもしれない。岸谷が一劇団員からスターダムにのし上がっていく様を目の当たりにした。

 番組内容も、くだらない下ネタでゲラゲラ笑ったかと思えば、自殺予告のハガキにリスナーみんなで真剣に向き合う、星野が『オールナイトニッポン』でも体現しているような硬軟自在さ。岸谷のライフワークとなった「アクト・アゲインスト・エイズ」の活動も、この番組に届いたHIVに感染した少女からの手紙がきっかけで生まれた。

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 星野は『コサキン』同様、通学中に録音した『レディクラ』を聴いていた。池袋駅で西武線ホームのレッドアロー号に乗り換える。お腹が弱い星野は、なけなしの小遣いで特急券を買い、トイレのあるレッドアロー号で通っていたのだ。レッドアロー号の改札が開くのを待っていたときだ。

「埼玉県川口市、ジョン・レノンから──」

 耳に飛び込んできた岸谷のその声に膝から崩れ落ちそうになった。星野は「ジョン・レノン」という何のひねりもないラジオネームで投稿しており、それが初めて読まれたのだ。

星野源 ©文藝春秋

「岸谷の手帳の後ろの連絡先欄に誰の名前が書いてあるか」といった大喜利コーナーの投稿で、岸谷は星野のネタに、しばらく喋れなくなるほど爆笑した。それがたまらなく嬉しかった。「あの爆発的な喜びは一生忘れない」と回想している。

「だから今でもラジオに思い入れがあるんだと思うんです。でも今はメールで簡単に投稿できるけど、当時は1回投稿するごとにハガキ代が50円かかってたんですよね。ハガキを買うのも結構大変で。子供でお金も無いですから」(星野源公式HP「夢の外へ 特別対談」)