萬朝報は「よろず重宝」──Everything Convenient の意味もかける。新聞のコンビニ化を狙ったともいえる。デパートのような大新聞ではなく、小廻りのきく身近で至便な媒体だ。気安く購読できるファミリーペーパーが目標の一つだった。
読者層をみると、商工人、学生などの知識人ばかりでなく、職工など下層階級まで幅広い階層に読まれていた。他紙より安い定価を設定した狙いが当たったのだ。
作家涙香も売り物の一つ。傑作『鉄仮面』は、創刊の一カ月半後から百三十七回におよぶ連載だった。競合紙とみなされた『都新聞』が「人気作家」涙香の退社によって大打撃をこうむった、という記録もある。
創刊の翌年、萬朝報は『絵入自由新聞』を吸収合併した。かつて涙香が主筆として勤めた縁のあるメディアだ。これにより、経営をまかせる人材(山田藤吉郎)を得て、彼は執筆・編集に専念できる体制をととのえた。この年に、東京発行紙のなかで部数第三位となる。
部数は伸びる一方、一八九五年(萬朝報暦四年)には、帝都東京での新聞発行部数トップに立っていた。編集スタッフ七人で発足した小さなメディアの目覚ましい成功だ。
もちろん安価というだけで売上ランキングの頂点に立ったのではない。連載小説の涙香、やがてマムシの異名を冠されるスキャンダル報道。その二本柱が首都圏でいちばん売れる新聞の看板だった。
萬朝報の歴史の最初のページにくるのは、「相馬家騒動」である。明治最大規模の民間伝説(スキャンダル)ともいえる、陸奥相馬藩六万石の旧藩主、相馬家の「お家騒動」は十数年つづいてきた末に、当主の毒殺疑惑というとびきりの話題性をもって、クライマックスをむかえていた。創刊まもない萬朝報は、このスキャンダル競争に、後発組として、参入する。出遅れはしたが、過激な報道姿勢において他紙から抜きん出て、部数拡大の基盤をつくりあげた。
『新聞集成 明治編年史』(一九三六)には、次の記述がある。
相馬事件は明治年間に於(おけ)る大衆小説的興味の圧巻である。そしてこれ程問題が長く続き、それからそれへと派生的事件の多かつたことも無類である。事実はたしかに小説よりも面白い。
その「伝承」の拡がりは、日清・日露の二大対外戦争が引き起こした世論の沸騰に次ぐ、といった評価すらある。相馬家騒動が内包した雑多な「娯楽」要素に、涙香小説と重なるドラマ仕掛けがいくつもあったことは疑いない。涙香は、それらを配列し、必要に応じて誇大に(真実からははみ出しても)発信すれば、読者の反応を得られた。以降のスキャンダル報道路線はここに確定した。スキャンダルも翻訳小説も「区別」なく消費する読者が大量に存在した。相馬家騒動は、萬朝報砲ポピュリズムの大きな前史となった。これは決定的だった。(つづく)