刑務官の制止を振り切って検察官に殴りかかろうと…

 取り調べで古谷は犯行を素直に認め、短期間で次々と事件を起こした理由について「過去の服役中に手相による姓名判断を覚えたが、自分の手相は50歳程度までしか生きられないことを示していた。どうせ先も短いから、人殺しでは今までの誰にも負けず、後世に自分の名前を残したいと思い、連続して犯行に及んだ」と供述する。

 裁判は、1966年6月29日から神戸地裁で始まった。古谷は捜査段階での自供を一転させ、一部を除いて容疑を否認したどころか、検察官がAさん殺害の犯行状況を述べ始めると、突然立ち上がり、「やめろ! 黙って聞いていればいい気になって、でたらめな論告をするな」と怒鳴り、付き添っていた刑務官の制止を振り切って検察官に殴りかかろうとした。

 さらに自分の主張が認められないのは弁護士が無能だからだと騒ぎ立て、2度も弁護士を解雇している。

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 公判は計26回、5年に及び、1971年4月1日の判決公判で同地裁は死刑を宣告する。これを不服として古谷は控訴するが、その理由について弁護側は「犯行時、被告は心神耗弱状態にあり、犯行は『岡』という人物に指示されて行っただけだ」と説明。当然、そんな主張が通るはずもなく、同年12月13日に大阪高裁は控訴を棄却。