日本初の女性宰相となった高市早苗氏は、いかにして政界を生き抜き、国会議員として這い上がってきたのか。

 奈良の青年会議所(JC)の若者たちに支えられ、1992年7月の参院選出馬を決めた高市氏だったが、自民党公認を懸けた奈良県連の予備選で、世襲候補である服部三男雄氏に僅差で敗れてしまう。その後に取った高市氏の行動が、奈良政界の重鎮・奥野誠亮(2016年死去)を憤らせたという(本文中敬称略)。

◆◆◆

ADVERTISEMENT

「それでも出たい」という高市の反逆

 予想通り、結果は三男雄162票、高市137票、無効1票。25票差で高市は敗北を喫したのだった。

 事前の取り決めでは、高市は三男雄を応援する側に回るはずだった。

 予備選の後、高市は、JCメンバーを中心とする支援者が集まる奈良市内のマンションの一室に姿を見せ、無所属で出馬すると宣言するのだ。

初出馬時のリーフレット(乾充徳市議提供)に記載された政策

 粒谷友示(自民党奈良県議。当時は生駒市議)は、その時の空気を今も覚えている。

「高市さんに『どうすんの?』といったら『それでも出たい』という。それを聞いた面々は、みんな若い連中やから『やれやれ!』『こんなんおかしいやんか!』となった。それで『じゃあやろうか』と、出馬が決まったんです」

 それは、高市の最大の後ろ盾だった奥野の裁定を反故にする決断でもあった。

「奥野さんは高市に対して『反逆だ』と相当怒っていた。取材に来た記者に対しても、『裏切られた』と本音を漏らすほどでした」(地元政界関係者)

 粒谷もこう語る。

「奥野さんは県連会長として苦しい中で裁定して、服部という選択をした。その意味では高市に裏切られたわけだから、憤っておられたわな」

奈良の大物議員・奥野誠亮 Ⓒ共同通信社

 一方、高市を支持したのは若者たちだった。彼らは予備選が三男雄という世襲候補に有利だったことに憤り、旧態依然とした自民党の体質によって、地盤もカバンも持たない新世代の政治家候補の芽が摘まれようとしていると反発した。

 粒谷は、わざわざ自民党を離党して高市の選挙を手伝った。当時をこう振り返る。

「本人は、最初の選挙から、やるからにはトップ(首相)を狙うというのが希望だったと思うわ。単に国会議員になるだけやなしに。だからこそ『面白いな、この子は』と思って応援したんや。一般のサラリーマン家庭の子供が夢を持って国政に挑戦する。そこにロマンがあったんやな」

 高市早苗、31歳。サナエ劇場の幕が開いた。