バディは「かっこいいおじさん同士」では成立しない!?

――長岡藤孝はこれまでもさまざまな作品に登場する有名人物ですね。武川さんが改めて藤孝に注目された理由を教えてください。

武川:二条流の古今伝授を授かり、のちに細川幽斎と名を改めて一流の文化人だったことは間違いないですが、正直なところ、戦国のゲームチェンジャーかと問われると少し難しい。ただ、歌と陰陽師というテーマを軸にしたとき、藤孝という人物の「複数の顔」がものすごく面白かったんです。武将でありながら歌道の継承者でもあり、明智光秀とは長年の盟友でもある。このバランスは書き応えがありました。

――在昌と藤孝、バディとしてはどのように仕上げていきましたか。

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武川:最初、賀茂在昌はもう少し物分かりのいいおじさんという設定だったんです。でも、いざ藤孝と組み合わせてみると、「かっこいいおじさんとかっこいいおじさんが話している」という状態になってしまって、全然うまくいきませんでした(笑)。

 これは違うと思ったのですが、藤孝は史実上のスタンスがあるのでキャラクターをあまり変えようがありません。ならば、在昌をもう少し言うことを聞かない奴にしてみよう、と。そうして、織田信長の命令にさえごちゃごちゃ言うところを、藤孝がたしなめる掛け合いにしたら、するっとうまくいきました。

 もともと在昌は嫡子ではないにしろ、陰陽師の家に生まれながらキリスト教に改宗して出奔するという、ある意味で大胆な決断を現実の人物として下しています。それを考えると、物分かりのいい人ではなくて、もう少し行動力があって自我の強い人だったはずで、都での官位とか、賀茂家の後を継ぐとか、そういうことにはあまり興味がなかった人だろうというところから、今のキャラクターが作られていった感じです。

 作中での在昌にかなり口が悪い場面もあるのは、ちょっと夢枕獏先生の「陰陽師」に出てくる蘆屋道満への憧れかもしれないですね(笑)。在昌はトリックスター的な要素があって、不思議な服装をしているし、ちょっと斜に構えたところもある。

 どちらかというと源博雅に似ているのは在昌ではなく、藤孝のほうかもしれないですが、博雅ほど心がきれいでも純粋でもない。最後のほうでの明智光秀との関係性ではすごく純粋な側面も見えるけれど、自身の出陣の理由を息子の忠興に言い聞かせる場面では、まだ計算が働いていてというような、より複雑な人物として描きました。

 

本能寺のクライマックスへ向かう「暦」の謎

――武川さんはこれまで武田や上杉もの、東国の武将を書かれてきたイメージが強いですが、今回の作品は近畿地方が主な舞台になりました。

武川:そうなんです、畿内の武将を本格的に書くのはほぼ初めてで、有岡城攻めを描いた1話目(鯨観音)はどこまで行くのかな、という若干の手探り感で書きはじめました。それでも、クライマックスのひとつとして本能寺の変があるだろうな、というのはなんとなく構想としてはありました。

 武田の陰陽師も書きたいと思ってはいて、『甲陽軍鑑』でも民間陰陽師のような存在が確認できます。ただ、信玄は後半生に天台宗に傾倒しており、陰陽師をそれほど重要視していない感じもしました。うまくはまるかなと考えたとき、やはり畿内のほうがやりやすいとも考えたんです。

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――作中では暦のずれという要素も、後半に進むにつれて大きな軸になっています。

武川:当時の宣明暦は制定から700年ほど経っているので、実際にずれていたのは確実です。日月食の予想も何度も外れているというところで、そのずれをもしかしたら本能寺の変で使えるかもしれないと思いついたのが「首二ツ」を書いていたときでした。

 実際、天正10年(1582年)1月、当時の陰陽師頭だった土御門久脩や在昌らが安土城に呼び出されて、信長から当時の暦について諮問されています。おそらく、それは武田攻めがあったからで、京暦と東暦(三嶋暦)に差があると、連絡や作戦遂行のときに不便が生じる。この日に攻めてね、と言っても実は日付が違っていたということになると困ることから、何とかしたいという強い意識が芽生えていたんだと思います。

 陰陽師が暦と深く関わっているのは当然で、この年、本能寺の宿所にも土御門久脩は呼ばれているのに、在昌が行った形跡がありません。なぜ行かなかったんだろう、あるいは呼ばれていたけれど行かなかったのなら、と想像を膨らませて終盤の物語を考えました。