光秀の挙兵をめぐる藤孝の葛藤と決心

――本能寺の変に関する藤孝の動向について、武川さんなりの解釈を聞かせてください。

武川:私の想像ですが、藤孝は明智光秀による変の企てを事前に知っていたように思います。直前の愛宕山の連歌会には、信長の出陣に同行する準備のため、一旦丹後に帰っていたので出席していませんが、実は、その前に光秀から打ち明けられていたのではないか――ただ、藤孝と光秀のやり取りを記したものは、後年、ほとんど処分されたと考えられるので、真実は確認できません。

 そこで藤孝は即断即決せず熟考し、周辺の状況を見た上で「信長に対して挙兵する決意はつかない」という判断をしたんだと思うんです。一方、心情としては長年苦楽をともにしてきた、しかも、息子の義理の父でもある光秀を切り捨てることは、いくら乱世とはいえ、かなり心が痛んだのではないでしょうか。

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 本能寺の変の後、藤孝は愛宕山を訪ね和歌を詠んでいるのですが、それは慰霊に近い行動だろうと思います。羽柴の世になって大っぴらにはできないけれど、光秀が死んだあとも悼む気持ちを藤孝は持ち続けていたし、できることなら一緒に戦いたかった気持ちもあったのかもしれない。でも、家のためにはそれが不可能だったということなのだと思います。

――本能寺の変をめぐる意慾的な創作が、近ごろ相次いで刊行されていますね。

武川:2022年以降、光秀の当日の動向について、二次史料の概説書が刊行され、実際光秀が本能寺にはいなかったかもしれないという話が話題になりました、すると従来の本能寺の変で起きたとされていたことと、実際には違う出来事が起こっていたのかもしれないという議論が、ちょっとしたホットテーマにもなっていました。

 また、秀吉の毛利攻めからの中国大返しについても、信長が親征でその道を通るためにあらかじめ整備していたから、秀吉がその道を使えたという話もありますし、山崎合戦で秀吉自身は後方に布陣していたという説も注目されています。

 私も、秀吉は山崎の戦いでは直接交戦していないだろうと考えています。ただ、摂津先方衆として元々光秀方であった中川清秀と高山右近を先陣に出して、秀吉はそれより後ろにいるというのは、当時の慣例としてごく普通の行動です。こういう細かいところで、従来の一般的な解釈がうまくふるい分けられ、また違う景色が描けると作家としては感じています。

 

スーパーナチュラルではなく“ナチュラル”なもの

――本作では在昌が用いるさまざまな呪法や超常現象など、武川さんの従来の作品より、超自然的な要素が増えている印象です。

武川:実は、私は超自然的(スーパーナチュラル)なものが好きで、これまで抑えていたというのが正しいんです。ただ、こうした要素が好きなのは、「現実から遊離した空想」が面白いからではなく、中世人の感覚として超自然的なものや神仏の加護というのは、自然に信じられていた時代だったからということが大きいですね。

 呪術やまじないと武将との距離は、現代の私たち以上にずっと近かったはずです。たとえば、兜の前立てに信じる仏様を彫ったり、動物や神仏、太陽や月をモチーフにした前立てを作ったりというのは、現代から見ると人智を越えたものにすがっているように映るけれど、彼らにとってはごく自然なことでした。

 もちろん、この作品では一見スーパーナチュラルに見えるけれど、リアリティのレベルで「ありうること」として書くということには、非常に気をつけています。作中で光秀の進軍を抑えるべく、在昌が橋を折った場面がありますが、史実でも瀬田の唐橋は落ちており、追撃を防ぐ時間稼ぎのため光秀方が壊したとも言われています。

 夢枕獏先生の「陰陽師」では、晴明はさまざまな式神を使役していますけれど、藤孝が「式神を使うとは、面白うござります」と言うと、在昌は「信じるな、兵部。かの晴明じゃあるまいし」というような返しもする。平安朝の安倍晴明像よりは、もう少し近代に近い意識を持った陰陽師として在昌を設定しました。紫色の香が漂っている間はちょっと変なことが起きて、それが晴れるとぱっと現実に変わるという構造も意識しました。超自然的なものが存在したかどうかは読み手の判断次第、という書き方をしているつもりです。

――陰陽師がキリスト教に改宗するというのは、当時としてはどういう位置づけになるのでしょう。

武川:陰陽道はあくまで学問なので、キリスト教に改宗しても理屈の上では矛盾しないんです。「陰陽師で切支丹とは、二股が過ぎよう」と言われたりもしていますが、宗教と学問は別の話ですから。ありといえばありですよね。実際にはそんな人物はいなかったでしょうけれど、仏教徒の陰陽師が矛盾しないように、キリスト教徒でもおかしくはない。

 むしろ、この時代に地球を半周移動してきたヨーロッパの人たちの航海術も天文術も、明らかに優れていることは、誰の目にも明らかだったわけです。それを学びたいという気持ちは、在昌のような学者には自然な欲求だったんじゃないかと思っています。