その先には米軍住宅や横田基地があるからだ。さすがに廃線跡の痕跡など残っていないだろうし、そもそも基地の中は実質的にアメリカだ。入ることはできないから、バスや電車を乗り継いでぐるりと迂回する。
ところで、ここまで軽便鉄道の跡を辿る中で、気になるものを見つけた。地面に埋め込まれた、東京都のマークと「水道用地」の文字だ。
どういうことかというと、この廃線跡の地下にはいまも水が流れているのだ。多摩川から多摩湖や狭山湖へ、つまり貯水池に水を引く導水路が、廃線跡の地下を通っているのである。
といっても、前後関係で言えば鉄道が後で、先に設けられたのが導水路だ。
大正時代、人口の増加が続いて東京の水道は危機に瀕していた。それまでのように玉川上水に頼りきりではもはや賄えない。渇水時に給水が不安定になるリスクも高まっていた。新たな水源確保の必要性は急務だったのだ。
そうした中で建設が決まったのが村山貯水池、多摩湖である。そしてそのとき、多摩湖に水を引くための導水路が建設された。導水路の工事にあたっても、簡易的な軌道が建設されている。これが羽村山口軽便鉄道のルーツといっていい。
ただし、導水路が完成すると軌道は役割を終えてすぐに撤去されている。村山貯水池の工事では、砂利などの資材は中央線や川越鉄道(現在の西武国分寺線)経由で運ばれていた。だから、そのまま多摩湖の工事だけで完結していれば、導水路工事のために設けられた軌道のことなどはすっかり忘れ去られてしまったかもしれない。
ところが、東京の水不足は新たな水がめをひとつ設けたくらいでどうにかなるような状況ではなかった。多摩湖完成の翌年には早くも山口貯水池、狭山湖の建設が決定する。そしてこのとき、従来の砂利輸送ルートでは遠回りが過ぎるとなって、導水路上に改めてレールを敷くことになった。それが、羽村山口軽便鉄道だ。
東京で唯一の“鉄道空白地帯”
横田基地の滑走路を横切った導水路と廃線跡は、IHIの工場の中を通って江戸街道と交差するあたりから、再びハッキリとたどれるようになる。ここから先は、野山北公園自転車道という、自転車が通れる遊歩道だ。


