戦況が悪化の一途を辿る昭和19年秋、軍内部での反対論を押し潰して特攻作戦はなし崩し的に現実のものとなっていった。契機となったのが10月の台湾沖航空戦だ。
このとき行われた「史上初」ともいうべき特攻は、なぜか語り継がれていない。一体なぜなのか。昭和史研究の第一人者である保阪正康氏の著書『「特攻」と日本人』(朝日新聞出版)から一部抜粋してお届けする。
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1944年、いよいよ「特攻」が現実のものとなってしまった
昭和19年6月から10月にかけて、7月のサイパン島、8月のテニアン島の玉砕、グアム島での抵抗も限界があり玉砕と、戦況そのものが悪化の一途を辿り、そうした状況が、特攻兵器の開発をより急がせることになった。
しかも「あ号作戦」失敗のあとの内閣は、東條から小磯国昭に代わっていたが、小磯は陸軍首脳のひとりとはいえ、すでに省部の中枢にはなんの影響力もなく、すべては大本営陸軍部、海軍部のやりたい放題で、戦況にはまったく口を挟むことのできない首相になっている。
戦況がどのようになっているかなどまったく考えずに、大本営から言われたとおりに10月は「比島決戦が天王山」とだけ国民にむかって叫んでいた。
ただやはりふれておかなければならないのは、体当たり攻撃の計画がしだいに表面化してくるにつれ、それに反対する軍人も少なくはなかったことだ。これは陸軍内部の動きだが、9月25日に参謀本部と航空本部の幕僚との会議の席上で、参謀本部側は「もはや航空特攻以外に道はない」と説くのに対し、航空本部の佐官はそのような方針は受けいれられないと反対したとの記録もある。
参謀本部、軍令部にしても作戦参謀の特攻作戦容認の見解と航空参謀の消極的な見解との間には特攻作戦についての考え方に開きがあったということだろうが、実際には日本の軍事組織は作戦参謀のほうに発言力があり、流れとしてはその方向に進んでいったように思えるのである。
こうして特攻作戦が現実に行われるに至るのだが、そのきっかけとして昭和19年10月中旬の台湾沖航空戦が挙げられる。その航空戦で日本軍は大戦果をあげたとされたが、実際にはそれほどの戦果をあげたわけではなかった。



