昭和20年8月9日午前11時2分、テニアン島から飛来した爆撃機B-29「ボックス・カー」号から、プルトニウム型原子爆弾・通称「ファットマン」が投下され、さく裂した。

 当時、長崎市の人口は約24万人。即死者は約3万5000人~4万人、年末までに約7万4000人が亡くなり、重軽傷者も約7万5000人にのぼったと言われている。実に、長崎市民の3分の1が原爆で亡くなったのだ。 

 長崎、広島の追悼平和祈念館には、被爆者の体験記を集めた黒い背表紙の「被爆体験記集」、通称「黒本」がある。そこには、被爆直後の状況が、多くの方の直筆によって鮮明に記されているという。

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 そこに綴られている原爆の実態、そして当事者たちが直面していた現実とは――。ノンフィクション作家のフリート横田氏が長崎で取材した。(全2回の1回目/2回目に続く)

長崎市上空約500メートルで炸裂、7万人以上が死亡した原爆のキノコ雲 ©時事通信社

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「イズヲクダサイ」長崎出身・美輪明宏さんが語った被爆体験

 先日、思いがけない偶然に出くわした。本稿の取材のため、筆者は長崎に滞在していた。突然飛び込んできたのが、長崎出身・美輪明宏さんの訃報だった。彼は10歳で、爆心地から3キロ余り離れた自宅で被爆し、そのころの体験を繰り返し語っていた。

 終戦後ほどなくして、自宅に女性がやってきて、美輪少年に、「イズヲクダサイ」と言った。一瞬、少年はなにを言われているのか分からなかった。女性は、原爆によって髪も顔も焼けただれ、唇が溶けている。水をくださいと上手く言えなかったのだと気付き、美輪さんは土瓶から口に水を注いであげた。女性は間もなくして、亡くなった――。この話を繰り返しメディアに語った美輪さん。こうした被爆体験の語り部が、またひとりいなくなった。

昭和20年8月9日午前11時2分、プルトニウム型原子爆弾・通称「ファットマン」が長崎に投下され、さく裂した

 昭和20年8月9日午前11時2分、テニアン島から飛来した爆撃機B-29「ボックス・カー」号から、プルトニウム型原子爆弾・通称「ファットマン」が投下され、長崎市内松山町のテニスコート上空約500メートルで爆発。一瞬で、摂氏30万度に達した火球が発生、熱線が放射され、数秒のうちに地上は摂氏約3000度の熱と、強烈な衝撃波と爆風に襲われた。爆心地から1キロ以内にいた人は、ほぼ即死したと言われる。

長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾・通称「ファットマン」 ©時事通信社

 建物の倒壊による圧死や、激しく燃え上がる火災、爆発時に放出された大量の放射線、落下した燃え残り「死の灰」と、投下直後に降った「黒い雨」にもおびただしい放射性物質が含まれ、これらによっても大勢が亡くなった。美しい坂の多い街は壊滅、地獄の有様となった。