装飾も抑揚もない。構成もなく、校正もなされていない。ただ直筆の体験記が続いていく。文章をほとんど書いてこなかった方だろうと思われる記事も数多くあった。

 正直に言って、意味が取りにくいもの、そもそも判読しにくい文字の手記も、黒本は、加工せずに載せている。しかしすべてに、原爆がどのようなものだったのか、の教えが含まれている。どのような思いでこれを書いたのだろうという思いが常に胸に迫ってくる。

黒本に綴られている手書き手記のイメージ。黒本は原則撮影不可だが、今回は本人の許諾を得て撮影している(筆者撮影)

「体には無数のウジが湧いていた」鮮明に記された被爆直後の状況

 より具体的に、数名の方の被爆体験記を抜粋する。(原文のままを掲載するが、旧字体のみ新字体に改めた)

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 池田末吉さん(被爆時14歳)

 道ノ尾駅を10日朝6時頃 皆さんの後からついて行きました 途中で多くの人が焼け死んで居りました 川に浮いて死んだ人 水を求めて出て来る人も5名見ましたが怖くてどうする事も出来ませんでした。川の近くを歩いて行く時に母子を見ました 大きな木が折れて母の首から肩にかけて当って居りました 見た時にはもう死んで居りましたが、2才位の女の子供さんは死んでいるのも知らずにかあちゃんかあちゃんとゆすってゐるのを見て何とも云へない気持で涙が止まりませんでした 救護班の方々で助って元気で生きて居る事と信じて居ります。

 松永美代子さん(被爆時12歳)

 三菱兵器工場に勤めていた隣組のオジサンが翌未明真裸の体をひきずらせながら、私達が避難していた防空壕に帰ってきたが全身ぶどう色にふくれてただれており、その翌日死亡した。今では信じられないが、その体には無数のウジが湧いていた。そのオジサンのお兄さんも三菱兵器工場に勤めていた。原爆投下後、1週間目頃から、頭の毛と歯が全部抜け落ち、顔も黄色くなり、むくんで激しい下痢を繰り返して死んだ。これが、放射能特有の死にかたである。

 氏原和雄さん(被爆時15歳)

 私の三男 昭和41年2月8日生 7才の時急に白血病となり、発病後わづか4ケ月で死亡しました。当初、手、足が痛む症状を訴えるようになり すぐ病院の診療を受け 即入院し 検査の結果 白血病と診断され その後毎日微熱が続き あらゆる手当を受けたが病状は、日増に悪化し 発病後4ケ月でなくなりました。本人は7才までは体格は(一年生の時) 中以上で平素元気な子供で、異状のある様な事は全く見受けられず病気になるのが不思議でした。

 蓮本美代子さん(被爆時8歳)

 この恐怖は被爆したものしか理解できません 自分の体内に原爆の放射線がある!! この50年間、ことある度に不安になり、悩みました。もし生まれかわれたら、原爆に心も身も汚染されない美しい平和な気持で一生を終えたい…と念じます。

 原爆投下後50年の時を経ても、被爆直後の状況を、多くの方が鮮明に記していた。通常の爆弾とは違う、原爆特有の症状への恐怖も消えることはなかった。

長崎で原子爆弾が投下された直後の負傷者と犠牲者 ©時事通信社

 強い放射線を浴びたことによる慢性症状の苦しみ、そして子どもの体へ影響が連鎖するのではないかと案じる手記も多い。かたときも消えることのない記憶の記録が続いていく――その数、約8万。この黒本について、もう少し詳しく記したい。

次の記事に続く 「知らなきゃいけないことを知らなかった」遺品の中に見つけた祖母の“長崎原爆”体験…約8万人分の被爆体験記「黒本」を日本人が今こそ読むべき理由

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。