主語を「大きくする」と「広くする」の違い
――『思考のストレッチ』では、主語を広げていくということを試みられていると思うんですが、主語を「大きくする」と「広くする」という言葉遣いは意識的に使い分けていますか?
田村 僕の中で明確な区別はそんなにないです。ただ、主語を大きくしているときって、広げる努力とかプロセスを無視して大きくしている場合が結構多い気がするんですよね。例えば、「自分は男だから男はみんなこう思っているはずだ」というのは、主語を広げるプロセスを経ずに、いきなり大きくしちゃっていると思う。もうちょっと年月をかけたコミュニケーションをしていきましょう、というのが、主語を広げていくことなのかなと思います。
「おわりに」では祖母の葬式に参列した際に感じたことを書きましたが、そこで親戚たちが「おばあちゃん、こういうことを考えてたのかもね」と話していることが、正しいか正しくないかみたいな話になるのはちょっと違っていて。そこでポツンと「こんなことを考えてたのかな」という話が、みんなの中で徐々に立ち上がっていく瞬間みたいなものを大事にしたいんですよね。
広げていくという比喩が大事なのは、ここまではいけるけど、ここから先はいけないかもしれない、というせめぎ合いを意識しながら、主語を考えなきゃいけないということですかね。主語を大きくするという表現だと、そこに含まれるか含まれないかみたいな話になっていくんですけど、そうではなくて、捉え方を変えたいというのが、「広げる」という言葉には入っていますね。
――この本を読んでいて、答えを提供されて理解するというよりは、読んだ上で、自分はどう思うかというところに繋がっていく本だなと感じました。
田村 そうですね。僕なりの見解は示してますけど、それが答えだと思ってほしいわけではなくて。答えが大事というよりは、この結論にどうやってたどり着いたんだろうという味わい方のほうがずっと魅力的だし、面白いし、読んだ人にとってもいいものになるんじゃないかと思っていて。先ほどの、主語を「大きくする」とか「広げる」の話で言うと、ハウツー本とか自己啓発本の要約とか結論だけを見て、「この人は僕と同じ考えだ」っていうのは、主語を大きくしちゃうことだと思うんです。
でも、ちゃんと本を読んで、この人はこういう背景と文脈と経緯があって、こういう風に考えるに至ったんだ、と思うことは、主語を広げていくことに繋がると思う。僕が読者に要求することは基本的にはないんですが、要約しないような形で好きに読んでくれたらいいなと思います。
――最後に、今後田村さんがこれについて書いていきたいなと思うものって今あったりしますか。
田村 本来曖昧でありうる私を、絶対的なものとして扱う傾向がいろんなところにあるのかなと思っているので、その傾向について考えたり論じたりしたいなと思っています。
僕はこれを「今この瞬間のちっぽけな私」と呼んでるんですが、今この瞬間しか有効じゃない、しかもちっぽけな私というものを絶対化して、自分の好みに合うかどうかということだけを考えて、自分が相手との関わりの中で変化することを考えずに、自分のお眼鏡にかなうかどうかで人を判断したりするようなことが多く起きている。
みんな、「今この瞬間のちっぽけな私」を確固たる基準として世界と関わろうとしているけれども、その結果、生きづらくなっているところがあると思うので、そこをもう少し考えてみたいですね。

