被爆者の子どもを表す言葉、「被爆二世」。親の戦争体験を語り継ぐ平和運動の担い手というポジティブな文脈で登場することが多い一方、当事者の遺伝的影響や健康問題、差別への苦しみなどには光が当てられてこなかった。 なぜ被爆者の子どもについて語ることが“タブー視”されてきたのか?

 ジャーナリスト・小山美砂氏の著書『ルポ 被爆二世』(集英社新書)より一部を抜粋・再編集して、5歳の時に病院で「20歳までは生きられん」と告げられた被爆二世・阿部雅治さんについて紹介する。(全4回の2回目/3回目に続く)

写真はイメージ ©beauty_box/イメージマート

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カルテには心房中隔欠損症と書かれていた

 一方の放影研からは、一向に返事が来なかった。阿部さんは2024年4月にホームページの問い合わせフォームから、カルテの開示を求めるメッセージを送ったが、待てど暮らせど応答がない。放影研は、「個人情報保護に関する基本方針」として、「ご本人からの申し出があれば、当研究所が保有する個人情報を開示します」と示している。

 取材の折に広報出版室に尋ねたところ、阿部さんからのメッセージが受信できていなかったことがわかった。担当部署に取り次いでもらって、必要書類の準備などを経た後、2026年2月、阿部さんのもとにようやくカルテの写しが郵送された。

 すぐに連絡をくれた阿部さんと1週間後に待ち合わせ、2人で一緒にカルテをめくった。開示された記録は、阿部さんと母・洋子さんの2人分。父・迪夫さんは検査を受けていないものと推察された。

 カルテに記されていた最も早い日付は、1959年3月10日。阿部さんは5歳になるまであと1カ月という時期に、ABCCで検査を受けていた。同日付の「診断の総括」には、「Patent Atrial Septal Defect」──心房中隔欠損症と書かれてあった。