被爆者の子どもを表す言葉、「被爆二世」。親の戦争体験を語り継ぐ平和運動の担い手というポジティブな文脈で登場することが多い一方、当事者の遺伝的影響や健康問題、差別への苦しみなどには光が当てられてこなかった。 なぜ被爆者の子どもについて語ることが“タブー視”されてきたのか?

 ジャーナリスト・小山美砂氏の著書『ルポ 被爆二世』(集英社新書)より一部を抜粋・再編集して、9歳の時に広島で被爆した早志百合子さんが、義母と医者の反対を押し切って出産を決めた経緯を紹介する。(全4回の3回目/4回目に続く)

写真はイメージ ©maruco/イメージマート

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9歳の時に広島で被爆、母は鋭いガラス片が刺さって血を流した

 広がる遺伝的影響への不安は、被爆者たちを深く悩ませた。ジェンダーを問わず直面した問題ではあったが、とりわけ大きな苦悩を抱かされたのは、女性の被爆者だっただろう。

 原爆で傷付けられたからだで臨む出産への不安に、遺伝的影響をめぐる議論が重なった。さらに、家父長的な固定観念が根強い社会の中で、妊娠や出産、そしてうまれてきた子の健康までが、女性の責任として引き受けさせられやすかったのだ。

 子どもをうむかうまざるか──こうした社会状況の中で、原爆の閃光にさらされた女性たちは、重たい決断を迫られた。

 9歳の時に広島で被爆した早志百合子さんは、「絶対にうむ」と決めていた。

 原爆が投下された時、爆心地から1.6キロ離れた土手町(現・広島市南区)の自宅にいた。家の中には、両親と2歳の弟がいた。母は、吹き飛ばされてガラス窓を突き破り、鋭いガラス片がからだの何10カ所にも刺さって血を流した。