「このまま死んでしまう」早志さんは寝たきりになり、吐き気が止まらず血を吐いた
家族みんなで、必死に逃れた。逃れついた川には、飛び込むすき間がないほどの死体が浮かび、山へ向かう道中では方々から「水」「水、ちょうだい」と乞われた。
食べるものも、住む場所もない。土手に野宿し、バッタやカエルを捕まえて食いつないだ。8月15日も土手にいたので、玉音放送は聞いていない。だが、「戦争が終わった、もう逃げ回らなくて済む」、そう思うとほっとした。
この頃から早志さんは寝たきりになり、吐き気が止まらず血を吐いた。
「このまま死んでしまう」
彼女自身そう確信する中で、母が草を煎じたものを飲ませてくれた。とても口にできる代物ではなかったが、効果はあったのかもしれない。中学2年生になる頃には心身の調子を取り戻し、明るく前向きに、自分らしく生きられるような充実感も覚えた。
ところがこの頃、何度かABCCへ連れていかれた。はだかになるよう指示されて、羞恥心と屈辱に唇をかみながら、検査の時間を耐えしのんだ。
結婚後に妊娠したが、義母と医者から「絶対に奇形の子がうまれる」と反対され…
高校を卒業した後、平屋のバラック小屋に社交ダンスを習いに通った。1学年先輩だった男性と出会い、結婚。しかし、義母は「早志家に被爆者の血が混ざる」「どこの馬の骨ともわからん女に……」などと言って、強く反対したという。
おなかに小さな命を宿したが、義母はおろか、医者も出産に反対した。
「悪性貧血の上、原爆におうとる。胎児の心臓の音がおかしいし、絶対に奇形の子がうまれる」
それでも早志さんは、必ずうむと決めていた。切迫早産のおそれや「妊娠中毒症」で、妊娠中の半分は入院せざるをえなかった。彼女を支えていたのは、命のバトンをつなぐという信念だ。原爆に遭い、病に倒れ、家も財産も失った。まさに「命しかない」状況を、必死に生き延びてきたのである。


