孫正義の父が語った過去

 三憲さんは、少年期に家族とともに韓国の工業都市テグから日本に逃れてきた難民だった。日本海を渡る夜の船旅は危険に満ちていた。船は沈みかけたが、日本の漁師に助けられ、福岡の海辺の町にほど近い海岸に送り届けられた。三憲さんが最初に始めた商売は、日本の大衆に人気の、焼酎という蒸留酒の製造・販売だった(孫は酒飲みではなく、彼がワインをグラスに半分以上飲んでいるのを私は見たことがなかった。だがもしかすると、ラ・ターシュをひと口飲むたび、孫一族が歩んできた長い道のりが脳裏に浮かんでいたのかもしれない)。

「父は家族を養うために何度も商売替えをして、そのたびに泥のなかを進むような苦難を味わってきた」――孫は父親の起業遍歴をそう語っているが、それを三憲さん本人から聞くのは、孫正義の人並外れた意欲を理解するための最も明快な手掛かりだった。それはまた、エヌビディア創業者のジェンスン・フアンがスタンフォード大学で学生に向け、「成長と成功のためには、痛みと苦しみをたっぷり味わったほうがいい」と語ったスピーチともハッとするほど響き合うものだ。

 不意に、三憲さんの顔にいたずらっぽい笑みが広がった。孫が新しいアイデアをひらめいたときにいつも浮かべる、あの笑顔だった。三憲さんは自身の巧妙な販売戦略について語ってくれた。それは、年じゅう飲んだくれている連中を集めて、手数料代わりにただ酒を飲ませるというものだった。マッキンゼーの戦略コンサルタントなら「川上統合」と呼ぶ戦略で、三憲さんは焼酎造りで出た搾りかすを餌に、豚を育てはじめた。そうして太らせた豚を東京の食肉処理業者にもっていけば、一番高値で買ってくれると考えたのだという。

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 次の一手は、機会をとらえた事業の多角化で、酒、豚と続き、ギャンブルへと手を広げた。他の韓国系移民にならって、東京にパチンコ店を開いたのだ(パチンコは、ピンボールとスロットマシンを足して2で割ったようなゲームで、ギャンブルが禁止されている日本でぎりぎり合法とされている)。

 しまいには喫茶店にまで手を広げたのだが、近隣の店のなかで自分のところのコーヒーが一番だと確信はあっても、なかなか客足が伸びずに苦戦した。ところがそこで、孫が独創的な解決策を思いついた。