退室しようとしたときにかけられた言葉
朝会ったときとは違って、私が入室すると孫は温かな笑みを浮かべ、肩の力も抜けていた。私はいつもの定位置へと向かった。孫の左側の、ここにいないロン・フィッシャーのためのスペースを残した、ひとつ隣の席だ。あの失敗は二度と繰り返さないつもりだった。
「ここにすわっていいんですよ」と孫が言った。口調はさりげなかったが、仕草はそうでもなかった。彼はニケシュのいつもの席を、右腕をいっぱいに伸ばし、手のひらを上に向けて指し示した。
いま考えれば、ほんの数時間前までニケシュの席だった場所にすわるなどありえないし、その後の会議では二度とすわらなかったが、その瞬間は、間をおかずにすわっていた。それだけ孫正義に「ノー」を言うのは簡単ではないからだ。
私が最初に訊いたのは、あの中傷キャンペーン(編集部注:社内外の敵対勢力によって仕掛けられた、ニケシュの誠実さを疑わせる一連の不当な攻撃)がニケシュの去る要因になったのかということだった。
「絶対に違います」と、孫は激しく首を振った。
「ニケシュの誠実さは100パーセント信じています」
彼はこの決断に悩み、何日も眠れない夜を過ごしたという。ニケシュのことは弟のように愛しているが、彼には素晴らしい才能があり、引き留めるのはフェアではない。孫は、ニケシュがいなくなることがどれだけさびしいか、そして私が残ることをどれだけ望んでいるかを語った。
「マサ、私はニケシュがいるからここに来ました。彼はこれからもずっと友人です。でも、私はあなたの構想を信じているし、一緒に働くのが大好きです」と私は答えた。
「それを聞けて本当によかった」と、孫は胸いっぱいに息を吸い込んだ。
その姿は弱々しく、心からほっとしているように見えた。
「それに僕たちは本当に楽しい時間を過ごしてますよね。美味しいワインを飲んで、ときにはゴルフもして、そして君が僕にドライバーを貸してくれる! でも、君がここに残ってくれたら本当にうれしいです」
「ロンと話して、組織をどうしていくか、ふたりで決めるといいですよ」と彼は言った。
私が退室しようとすると、彼はさらに言い添えた。
「一緒に人類の未来を変えましょう」
