「本当に『ありがたかった』の一言です」
札幌に戻る道もよぎらなかったわけではない。しかし、盛大に送り出してくれた常連客の顔が思い浮かび、その選択はできなかった。「逃げるわけにはいかない」そう決意したときに差し伸べられた手だった。資金面も含めて支援し、一緒に物件を探してくれた。
そして2024年。「井さい」は九段下で再出発した。だから店名の横には今も「& REGISTA」がある。感謝の証しだ。
今では札幌からのお客さんも訪れる。武道館や東京ドームでライブがある日に立ち寄ってくれる人もいる。
「たまに席の半分くらいが札幌のお客さんの時もあります」
江里香さんは嬉しそうに笑う。
「本当に支えられてます」
取材の終盤。私は思わず言った。
「でも全部、不可抗力ですよね」
夫婦が何度も立ち上がった証しの“一杯”
ラーメンがまずかったわけでもない。お客さんが来なかったわけでもない。すべてラーメン以外の理由だった。
二人は一瞬顔を見合わせた。
「確かに……」
翼さんがぽつりと言う。
「3年経って初めて気づきました」
翼さんは今までずっと「自分が悪い」と思っていたという。
「何か悪いことしたのかなって」
すると隣で江里香さんが笑う。
「いいじゃん、今笑えるから」
間髪入れず翼さんが返す。
「いや、早いだろ(笑)」
明るすぎる妻。まだ少し傷が残る夫。だが二人は並んで笑っている。
「一人だったらもしかしたら前のラーメン屋さんに戻っていたかもしれないです。前のラーメン屋さんに頭を下げて、もう一回働かせてもらっていたかもしれない。妻がいなかったら耐えられなかった。一人だったら立ち直れなかったと思います」
そう語る翼さんの横で、江里香さんは何でもないことのように微笑んだ。
開店1時間で閉店。
アメリカ進出の崩壊。
借金。
連続撤退。
普通なら諦めてもおかしくない。それでも夫婦はラーメンをやめなかった。いや、やめられなかったのかもしれない。
九段下の行列の先にある一杯は、ただの煮干しラーメンではない。夫婦が何度も立ち上がった証しそのものなのである。