ここでの中国人たちは青島の競馬場に送ることになっていましたが、済南からは立錐の余地がないほど貨車に積みこみ、食事など与えませんでした。大小便はたれ流しのまま。大きな駅では必ず何人かの死体がでるので、それを貨車の外に投げ捨てて青島まで運んだと聞いています。まるで虫けらのように扱っていて、それには何の感情もなかったのです」
小島は、ふっと溜息をもらした。こうして強制連行した中国人については、どこの誰で、どんな人かなどまったく知らないという。
第十二兵団に限らず、日本軍は討伐という名目で、しばしば略奪も働いていた。中国の農民が抵抗すると、拷問にかけ、みせしめと称して虐殺した。
第十二兵団による昭和17年4月の「冀南作戦」はひどい作戦だったと小島はいう。司令官は「八路軍は日本軍が行動を起こすと、すぐに農民服に着替える。ゆえに敵か味方かの区別はつきがたい。部隊は作戦地に入るや男子はことごとく殺害せよ」と命じたというのだ。
村の女・子供を含めて皆殺し
小島の部隊(約200人)は村に入ると、畑で働いている農民に走り寄り、次つぎに銃剣で刺し殺した。このときの作戦である中隊の中隊長が戦死した。その腹いせに、小島は近くの村の女・子供を含めて皆殺しするよう命じた。
小島の告白は、聞くほうもつらい。皆殺しの段になると、絶句する以外にない。両親と祖父母が横たわっている死体の下に、5、6歳の子供が生きていた。その子供は一言も発せず、目を大きく見開いて、小島の顔をにらみつづけていた。決して小島から目をはなさなかった。
そのころの小島は、日本軍の優秀な下士官であり、やがてこれらの行動によって中尉に昇進、昭和20年5月には関東軍特殊情報隊に“栄転”になった。三光作戦をもっとも活発に行った下士官こそが栄達の道を歩むことができたのである。八路軍に投降した反戦兵士のビラなど、小島はとうてい理解できなかった。



