「中国帰還者連絡会」に宛てられた一通の手紙

「この手紙をみてください」

 小島は一通の手紙のコピーを見せた。北京に住む中国青年新聞社の女性記者が、「中国帰還者連絡会」に宛てた手紙だった。平成2年(1990年)11月に送られてきている。この女性記者が老いた父の願いで、父の兄(李向民)についての消息を尋ねてきたのである。

「1942年の冬、日本軍が山東省囷東県地区で『八路軍』を掃討した際、李向民は栄成県山屯村に隠れていましたが、捕らえられました。村の人たちと一緒に威海衛に連行されて、銀行の倉庫に入れられました。まもなく八路軍の幹部だとわかり、単独に監禁されてから行方不明になりました。

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 捕らえられるまでは、山屯の村民に変装して、徐守二、徐守などと偽名を使っていました。山屯の富裕農民、徐守信の弟ということで、小学校の先生と名のっていたそうです。李向民は捕らえられたときは34歳で、背がわりに高く、皮膚が白く、目が二重瞼で、大きく丸い黒縁の眼鏡をかけていました。

 李向民は北京大学卒で中国共産党員です。捕らえられたときは囷東『大衆報』という新聞の編集をしていました。以下のことについてお尋ねいたします。

 一 李向民は威海衛に連行され、日本軍に『八路軍』の幹部だと知られてから、いつ、どこで死んだのか。

 二 その遺骨がどこに埋められているか」

八路軍幹部の消息の調査へ

 小島は、「中国帰還者連絡会」の会員たちとともに、足を引きずりながら、官庁や戦友会を歩いた。1942年冬の作戦は、まさに自分のかかわった作戦(第三次兎狩り作戦)で、その対象とした地域だったからである。調査の結果は芳しいものではなかった。

 調査は4つの方向でさらにすすめられた。ともかく、この作戦に参加した独立混成第五旅団に属していた者の証言を得ることが必要だった。結局、関係者を捜すことはできず、指揮官たちは世を去っていた。古参兵たちもその後、南方に転出して戦死している。

 二番目は、日本軍が作成した戦闘詳報報告書の捕虜の氏名のなかにないかという点である。小島は、自らもその作成にかかわったので、こういう人物が捕虜になっていれば、必ず書かれているという確信があった。防衛庁戦史室を訪ねたが、各部隊の作成した資料は、敗戦時に軍によって焼却されていた。

 三番目は、憲兵が強制労働に耐えられる者を選別した際に、名前、年齢、出身地などを聞いているはずと考えて、関係者を捜すことだった。八路軍や共産党員を捕らえるのは憲兵にとっても手柄になるはずだった。しかし、小島のルートでは李向民を知る者はいない。

 四番目は、日本に強制連行され、不幸にして過酷な労働条件と劣悪な生活条件のなかで、死亡したケースを調べることだった。

次の記事に続く 「涙を流したまま語り始めたが、突然、意識を失って倒れた」日本軍に強制連行された中国人(当時15歳)が、戦後語っていた“怒り”