花岡鉱山では連行された6割が死亡…当時15歳の子どもも
私は「中国人強制連行を考える会」(連絡先=東京・江戸川区)が発行しているあるパンフレットを手にして、息をのむばかりだった。花岡事件(昭和20年6月、秋田・花岡鉱山で強制連行された中国人986人のうち480人が虐待に耐えかね、決起し、逆に惨殺された事件)に対する日本側の責任を問いつめているパンフレットであった。
この鉱山に連行された986人の中国人の年齢は15歳から67歳までに及んでいる。実に41歳以上が307人(30パーセント)を占めている。そして、そのうち62パーセントが死亡している。まさに山東省の農民たちを畑から日本に、そのまま手あたりしだいに連れてきて虐待したことがわかる。
1990年の夏、中国の河北大学の教授・学生たちが河北省で強制連行の実態を調べた文書がある。その資料によると、日本へ強制連行され、この当時、中国で暮らしていた老人たちは、聞きとり調査ではいちように涙を流し、記憶を語るたびに激高したという。
当時15歳で連行された王子は、不意に訪れた学生たちに涙を流したまま語り始めたが、突然、意識を失って倒れた。語るうちに怒りが高まり、脳血栓を起こしてしまったというのである。
周恩来が香川たちに手渡した“お土産”
戦争末期、香川は八路軍の総政治部に身を置いていた。
延安には、八路軍の日本人捕虜の扱い方を学ぶために、アメリカ陸軍のオブザーバー・グループがやってきた。1944年7月のことである。アメリカ軍としても、徐々に増えていく日本人捕虜に対してどのような対応をすればいいか悩んでいた。
このグループのなかには、のちに日本公使になるエマーソンもいたし、日本軍への「伝単」(戦場での相手国への宣伝ビラ)を作成する日系二世もいた。香川はこういうグループとも交わっていた。
1945年8月半ば、日本がポツダム宣言を受諾するという報告が入った。延安は沸きに沸いたという。
香川は野坂参三らとともに、他の反戦兵士より一足先に延安を離れて、新京(現・長春)に向かった。その折に、周恩来が別れの挨拶を送った。
「中国はまだ遅れている。日本はたしかにすすんでいる。しかし、われわれの国はわれわれの健在なときに社会主義になるだろう。情勢はいい方向に向かっている。私は、あなたたちに何もお土産を与えることはできない。せめて、これをお土産としてほしい」
そういって、周恩来は小さな金の延べ棒を香川たちに手渡した。



