大仰で偽りに満ちていた「戦闘詳報」
アメリカ軍の飛行機に便乗してひとまず張家口に向かったが、香川は何度も機上から延安を見つめた。華北の山々が、大きな岩山が、眼下に広がっていた。
そういえば、反戦兵士の活動に手をやいた日本軍は、20数機の爆撃機で延安を爆撃したことがあった。1943年(昭和18年)に入ってまもなくのころだった。日本のパイロットは、人の住んでいない延安市内に爆撃を浴びせた。被害はロバが一頭、死んだだけだった。
そのロバが、食肉として反戦兵士たちのテーブルにのった。爆薬を除いた爆弾はすぐに印刷工場のローラーとして利用された。日本の新聞は、延安に徹底して爆撃を加え、壊滅したと報じていた。香川は、その報道に苦笑いするだけだった。
第四中隊の中隊事務を担当しているときに、討伐作戦や八路軍の攻撃を受けての戦闘のたびに、「日本兵一人ひとりはどのように戦ったか」「弾丸をどう使ったか」「八路軍の攻撃をどう撃退したか」とする報告書(戦闘詳報)をしばしばつくらされた。
中隊長の命令によって、その功績を「殊勲甲」「殊勲乙」「勲功甲」「勲功乙」といった具合に分けていく。それぞれのランクに一定の比率があり、兵士の動きを勤務評定していくのであった。
この報告書は、つねに大仰で偽りに満ちていた。敵の攻撃がないにもかかわらず、あったかのように書き、敵兵をいかに殺害したかを誇大に報告する。それゆえに延安を攻撃したパイロットたちは、たぶん英雄になっているだろうと香川は推測した。
「侵略戦争はすべきでない」反戦兵士の一員であることへの誇り
機上から自分を育てた延安の町がみえなくなったとき、香川は、日本陸軍は負けるべくして負けた、という実感を強く味わっていた。
中国侵略の罪深さに気づき、一刻も早く戦争をやめさせるためにと戦った反戦兵士の一員であることに改めて誇りを感じた。日本はもう、こういう侵略戦争はすべきでない。そのために日本に帰っても、この志を守りつづけようとなんども身を引きしめた。
日中戦争に従軍した兵士のなかに、不戦兵士でないにもかかわらず昭和陸軍の退廃的な部分を告発する兵士が多いのは、この戦争があまりに汚れていたからと結論づけられるだろう。


