太平洋戦争期の旧日本軍は、中国大陸において討伐や強制連行といった名目のもと、現地の人々に対して非人道的な行為を行ったとされている。なぜ彼らは平然と“蛮行”を重ねることができたのか?

 戦時中の生々しい実態を取材したノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『昭和陸軍の研究 上』(朝日文庫)より、一部を抜粋。旧日本軍の部隊で中隊長を務め、凄惨な「三光作戦」や強制連行に関わった「中国帰還者連絡会」常任委員の小島隆男の証言を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く

写真はイメージ ©アフロ

◆◆◆

ADVERTISEMENT

参謀たちの気まぐれで場所選定…大包囲網で追いこむ「兎狩り作戦」

「兎狩り作戦」とは、40キロ以内の地域を日本軍が大兵団で包囲し、村に入り、青年たちを引きたてて日本に送りこむ作戦だった。太平洋戦争も昭和17年春以後は、物量消耗戦に入る。青年・壮年の労働者は戦力として徴用され、労働力は著しく減少した。

 そこで東條内閣は、中国人を労働者として徴用することを閣議で決めた。それを実際に山東省で行ったのが、第十二兵団であった。

 山東省のどの地域を選ぶかは、日本軍の参謀たちの気まぐれであった。華北の地図を広げて、思いつくままにコンパスを立て、そこで円を描き、この地域から徴用しようというのである。ついでに八路軍兵士を捕らえれば、それに越したことはないという、まったくいいかげんな作戦であった。

 しかし、たとえ参謀が気まぐれに地域を選んだとしても、ひとたび命令が下達されると、それは日本陸軍の具体的な行動となってあらわれていく。

 昭和17年夏、第十二兵団参謀の指揮のもとに何度か訓練がつづけられた。野原で兎をとるときに大包囲網で追いこんでいくように、各中隊がくまなく包囲網を敷き、1日16キロの速度で中心の八路軍の拠点に追いこんでいく。各部隊が包囲網を崩さないように、上空には飛行機が旋回し無線で連絡をとりあう。

「通過する村はすべて焼き払え」強制連行した中国人は虫けらのような扱い

 その一方で中国人が抵抗すればそれに射撃を加えるという作戦であった。1回目の作戦は「魯西作戦」と名づけられ、昭和17年の9月に行われた。2回目はやはり9月、3回目は11月に行われた。

「村に入り、青年を追い払って拠点に近づけていきます。抵抗すれば機関銃を撃ちまくり、不服従の様子があるときは殺害し、村に反日の空気があるとわかればすべてを焼き払いました。私は中隊長として、通過する村はすべて焼き払えと命じました。こうして拠点に集まった中国人の男性を後ろ手に数珠つなぎにし、後方の憲兵隊に送るんです。