正甫の後に「出世城」の城主となった意外な人物

 こうして棚倉へ入った井上正甫の代わりに浜松城主となったのは、天保の改革を断行する水野忠邦だった。

 一説によれば、この忠邦が画策し、正甫を浜松城から追い出したのだという。よく知られているように、浜松城は徳川家康が拠点とした城である。そういった意味では縁起のいい城であるし、江戸時代も中期になると、城主が必ず栄達するということで別名を「出世城」と呼ぶようになった。

 たとえば、松平乗寿は老中、太田資宗は若年寄、青山宗俊は大坂城代、松平信祝は老中、松平資訓は京都所司代などになっており、宝暦8年(1758)に浜松城に入った正甫の祖父・正経も、それから2年後、若くして老中に抜擢されている。

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 父の正定も20歳そこそこで奏者番となり、その後、寺社奉行を兼務したが、33歳の若さで亡くなってしまったので、家督を継いだ正甫がかわって奏者番となったのである。

 浜松城は重要拠点なので譜代大名がここを守ったが、今述べたように浜松城主からは奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代を経て若年寄から老中に出世する者が多かった。

 唐津藩(佐賀県)主・水野忠邦は、若い頃から老中となって、腐り切った世の中を改革することを宿願としていた。

 水野家は、家康の実母お大の方の兄・忠守の三男・忠元を始祖とする。

 忠邦は寛政6年(1794)に唐津藩主(6万石)忠光の次男として生まれ、長男が夭折したため嗣子となり、文化9年(1812)に19歳の若さで家督を継いだ。老中就任を夢見た忠邦だったが、唐津にいてはそれが不可能だった。