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江戸の権力まで掌握
唐津藩は国際港である長崎の警備を担っており、江戸の老中にはなれない決まりになっていたのだ。そこで忠邦は幕閣に転封を願い、莫大な賄賂をばらまいて昇進運動を展開した。
この頃、同族の水野忠成が老中格になり、幕府で大きな力を持つようになった。
この水野忠成が、忠邦の求めに応じて、正甫の強姦未遂をうまく利用して浜松から異動させ、代わりに忠邦を浜松城主にしてやった可能性がある。
こうして浜松城に入った忠邦は、出世城の効果が表れたようで、転封した年に寺社奉行となり、その後、大坂城代、京都所司代と順調に出世し、32歳で将軍の世嗣・家慶つきの西の丸老中になった。
そして天保5年(1834)に水野忠成が病死すると、これにかわって本丸老中に就任する。
だが、将軍・家斉は半世紀近くも権力を握り続け、天保9年に将軍職を息子・家慶に譲って大御所となったが、その後も実権を持ち続けた。
結局、天保12年に当人が死没するまで、老中でありながら忠邦は動くことができなかった。
家斉が69歳で死去した後、老中首座だった水野忠邦がようやく権力を握った。