忠邦は、家斉の側近で三佞人と呼ばれた若年寄の林忠英、御用取次の水野忠篤、御小納戸頭取の美濃部茂育をはじめ、家斉に近い老中や官僚を次々辞職に追い込んでいった。また、大奥の実力者たちも多数罷免した。そして、質素倹約を主とするすさまじい幕政改革を始めたのである。

 だが、あまりに厳しすぎたため、大名のみならず庶民からも総スカンを食らい、改革はわずか2年で挫折した。

 弘化2年(1845)に忠邦は謹慎蟄居処分となり、水野家は1万石を没収されたうえ、山形へ転封されてしまった。

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「強姦大名の息子」がまさかの抜擢

 その後、浜松城に入ったのは、井上正春であった。想像できると思うが、正春は正甫の子である。千駄ヶ谷村の不始末で棚倉に転封された3年後の文政3年(1820)、正甫は正春に家督を譲った。正春は奏者番となり、天保7年(1836)には棚倉を脱して、上野国館林(群馬県館林市)に移ることに成功した。その2年後、父よりも栄達して大坂城代となったのである。

写真はイメージ ©getty

 そしてついに天保11年(1840)、老中に出世したわけだ。水野政権時のことなので、もしかしたら忠邦が正甫を追いやったことを悔い、正春を引き上げたのかもしれない。あくまで想像だが……。

 いずれにせよ、正春は父の正甫も果たせなかった幕府の最高職に就いたのである。さらに忠邦が失脚すると、弘化2年、浜松城主に返り咲いた。