我慢の限界

 結海さんは、それでも育ててくれた感謝があると語る。けれど、そうであってもつらい日々だったと言う。結海さんは我慢の限界にきていた。何が理由かは知らないけれど、怒りの捌け口にされるというのは、あまりにも理不尽だと思うようになってしまうのだ。

 結海さんは、叔父母の家から出ることを「自ら決意した」と明かす。その間に自暴自棄になり、悪さをして補導された過去がある。そのとき児童相談所の職員が介入した。これをきっかけに虐待は止んだ。

 だが、それも少しの間だけだった。やがて虐待再開を機に考えは変化する。「このままずっと我慢し続けるしかないの? って。標的が妹になるまで待つのも違いますよね。もう逃げるしかない」と思った。そんな状況だからこそ、他に選択肢はなかったのだろう。

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 しばらくして結海さんは、児童相談所に駆け込み、一時保護を経て児童養護施設に移送された。そこには、虐待のない環境があり、被害者・加害者遺族であることを隠し、施設職員以外に「桑田の娘であることを誰も知らない」という状況を作り出すことに成功した。みな同じような境遇だと思っているからなのか、さめた目で見られることはなかった。

 そこで振り返って思うのは、叔母たち家族も犯罪被害者・加害者遺族で、その葛藤が虐待として降ってきたのは当たり前の感があることである。

 まだ小学生だった結海さんには、そのことがすっぽりと抜け落ちていた。叔母たちからすれば、自分たちもさめた目で見られる対象であり、さらにやっかい者が増えたのであり、事件の因果を纏い生きるのに必死でいたということだ。

大人になってわかった母の愛情

 結海さんは、中学生時代を施設で過ごしている。母の日記について、一時外泊した結海さんは、先に記したように祖父母の家で目の当たりにした。

「思春期、がっつり思春期でした。多感どころか死にたいとすら思っていました」

 もう一度、整理しておこう。結海さんの理性が音を立ててくずれたのは、親族から見放され、亡き母からも否定された気持ちになったからだ。

 施設は中学までしかいられなかった。そのため、卒業後は静岡県内の飲食店に就職した。決め手は寮があることだ。ここなら叔母らを頼らず生活できる。