しかも秀吉の攻勢は、信雄の周辺にまで及んでいた。信雄の重臣・津川雄光、岡田重孝、浅井長時らに次々と接触し、着実に秀吉派へと取り込んでいったのである。信雄からすれば、自分の家臣が自分を飛び越えて主君筋に直接つながっていく、主従関係そのものの逆転現象が進行していたことになる。知行も、祭祀も、挙句は家臣団までも奪われようとしている。これでは信雄が激怒するのも無理はない。

こうして1584年3月、信雄はついに一線を越える。秀吉に通じていたとされる津川・岡田・浅井の3名を粛清したのだ。これが小牧・長久手合戦の直接の引き金となる。

秀吉にしても、言い分はあっただろう。信雄には織田家当主としての権威こそあれ、それを行使する実力も政治手腕もない。担ぐ価値はあっても、任せる価値はない。そんな評価だったに違いない。

ADVERTISEMENT

数年後には、官位で家康を追い抜いた

知行も祭祀も家臣団も、気がつけば静かに奪われつつある……その焦りと、器量を値踏みされている屈辱。両者の言い分は、最初から噛み合いようがなかった。感情のもつれというより、埋めようのない評価の断絶が、小牧・長久手という形で表に噴き出したというべきだろう。

もっとも、信雄が単独講和をあっさり決断しているあたり、さほど収拾のつかない対立ではなかったのかもしれない。というよりは「おのれ秀吉」とばかりに戦ってみたら、すっきりしたようにもみえる。死んだ池田恒興たちが浮かばれないが、これが史実である。

ともあれ、これ以降、権力闘争の表舞台からは静かに退場……と思いきや、信雄の人生、ここからが意外と長い。

しかも、しょぼくれて余生を送ったわけではない。1585年2月、秀吉の推挽で正三位・権大納言に叙任。翌3月、秀吉自身が正二位内大臣に昇ると、信雄はその臣下という立場に組み込まれることになるのだが、扱いが軽くなるどころか逆である。抵抗を続けていた佐々成政の降伏を取りまとめ、秀吉・家康の和睦にも一枚噛んで実績を積み、1587年には自らも正二位内大臣に昇進。「尾張内大臣」「尾張内府」の名で呼ばれるようになる。この時点で官位の序列上、信雄は秀長よりも、そして自分がかつて焚きつけたあの家康よりも上に立っている。