極め付きは1588年、後陽成天皇の聚楽第行幸だ。関白・秀吉の行列で、信雄は左大臣・近衛信輔に次ぐ第二の位置に並んでいる。要するに、武家序列の実質トップである。秀吉と戦わせておきながら梯子を外した家康を、位階の上では堂々と見下ろす立場に収まっていたわけだ。単独講和で「裏切り者」呼ばわりされた男が、数年後には家康の頭上に座っている……この落差、歴史を知らなければ誰も信じないだろう。

改易の背景は“豊臣大名の役割の拒否”か

ところが、ここからの人生がまた波瀾万丈だ。

1590年7月、小田原征伐の論功行賞の場で秀吉は、北条氏の旧領・関八州を家康に与え、家康の旧領である駿河・遠江・三河・甲斐・信濃を信雄に与えるとした。官位も最高なのに加えて領地も急増である。ところが、信雄はこれを固辞し、先祖伝来の地である尾張・伊勢をこのまま領していたいと願い出た。すると秀吉は激怒し、信雄をその場で改易、下野国那須烏山への配流を申し渡す。捨扶持はわずか2万石だったとされている。

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いきなり改易された理由は、長らく「信雄個人の資質・判断ミス」という枠組みで語られてきた。

例えば江戸時代中期の逸話集『常山紀談』では、秀吉に舞を所望された信雄が自分を侮っていると思い不吉な替え歌で唄ったために怒りをかったという、できすぎた話になっている。そこで研究者の間では、信長の息子としての利用価値の消失や警戒といった論点が示されてきた。

こうした追放の謎研究を一歩進めたのが柴裕之「織田信雄の改易と出家」(『日本歴史』859号)だ。ここで柴は、改易の原因は信雄個人の資質にではなく、豊臣大名としての織田氏に構造的に課された立場にこそ求めるべきだとしている。この時期、徳川氏の関東移封は「関東・奥両国惣無事」実現のために豊臣政権が徳川氏に課した責任の履行だった。信雄の国替も、まったく同じ構造の要求である。豊臣大名として果たすべき責任を、信雄は拒否した。それが改易の政治的背景だ、というのが柴の見立てである。