家康の尽力で半年で赦免

つまり信雄は、「わがままを言って秀吉を怒らせた暗愚な二代目」だったのではない。「豊臣政権が大名一般に求めていた構造的な要求を、たまたま拒否した一人」だったにすぎない。同じ要求を出された家康は黙って従い、関東の覇者となった。信雄は断って、改易された。両者を分けたのは器量の差というより、選択の結果である。

ところが、である。天正19年(1591年)2月、家康の尽力によって信雄は赦免され、秋田からの帰還を許される。追放からわずか半年強での帰還なのだから、いくらなんでも許されるのが早い。

同様に家康の尽力によって赦免された事例はほかにもある。仙石秀久がそれだ。九州征伐の戸次川の戦いで大敗を喫し、戦線を放棄して逃亡、讃岐10万石を没収され浪人となった。しかし、小田原征伐の報を聞くと旧臣らと共に参陣、家康の軍に「陣借り」させてもらい奮戦し、信濃小諸5万石を与えられて大名に復帰している。秀吉にとっては脅威でもある家康の取りなしというのは、もっとも有効なカードだったといえるだろう。

ADVERTISEMENT

その後、剃髪した信雄は捨て扶持を与えられ、御伽衆として復帰することになった。

“関ヶ原”では恩人の家康に弓を引いた

この赦免の恩、信雄はどうやら深く噛みしめてはいなかったらしい。なんと1600年、関ヶ原の戦いで信雄は西軍に与し、家康に弓を引いて再び所領を失うことになったのだ。命の恩人に矢を向けるとは、恩知らずにもほどがある……と言いたいところだが、その理由を記す同時代史料は存在しない。動機が定かでないまま、後世の記述に頼らざるを得ないのが実情だ。

新井白石が江戸中期に著した『藩翰譜』は、石田三成が秀頼の命と称して信雄に黄金千枚を送ることと、尾張復帰を約束して西軍への加担を取り付けた、と伝えている。ただし白石は信長・秀吉の代についても辛辣な評を残す江戸時代の儒学者であり、この逸話も編纂物の域を出ない。史実として鵜呑みにはできないが、読み物としての完成度は異様に高いので、まずは中身を見てほしい。