思えば、信雄の生涯は「信長の息子」という看板を、どう使うかの試行錯誤の連続だった。若い頃はこの看板で天下を狙えると本気で信じていた節がある。清須会議で名代を争い、賤ヶ岳前夜には織田政権の当主として振る舞った。だが、看板だけでは政治は動かせないということを、信雄は苦い形で学び続けることになる。小牧・長久手では家康を焚きつけておきながら自分だけ講和し、改易され、関ヶ原では金の交渉に手間取っているうちに天下分け目の合戦そのものが終わっていた。
「織田信長の息子」の看板で生き延びた
どこかの時点で、信雄は悟ったのだろう。俺は天下を獲る側の人間じゃない、獲った人間に担がれる側の看板でしかない、と。だったら無理に権力闘争の主役をやる必要はない。看板の効能だけを、のんびり享受して生きればいい。
考えてみれば、信雄の人生観はある一点に集約できる。切腹さえ言い渡されなければ、あとはどうとでもなる。改易されようが、蟄居させられようが、烏山だろうが秋田だろうが、誰かしらが金と居場所を用意してくれる。本人が汗をかいて勝ち取ったものは、実はほとんど何もない。ただ「織田信長の息子」という看板を提示し続けるだけで、次から次へと誰かが養ってくれるのだ。これはもう処世術というより、一種の才能である。
天下を獲ることには最後まで向いていなかった男が、天下を獲った者たちに愛想よく養われ続けることには、誰よりも向いていた。信長の息子という看板は、信雄自身の手では一度も使いこなせなかったが、信雄という人間そのものは、切腹さえ免れればあとは野となれ山となれと、その看板にちゃっかり食わせてもらい続けた。それが、48年にわたる信雄の後半生である。
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
