田中と大関和、妻にも先立たれる

昭和に入ってからの木下は、著述と思索の日々を送る。昭和4年(1929年)に『木下尚江集』全4巻を出した。昭和8年(1933年)に堺利彦が死ぬと執筆を再開し、明治史の調査に打ち込む。同じ年の『中央公論』には「政治の破産者・田中正造」と「臨終の田中正造」を発表した。正造の枕元にいた1カ月を、20年たって書いたことになる。昭和に入って出した『神 人間 自由』では、普通選挙運動で逮捕され入獄した1年半を「再生の天寵」と振り返っている(新宿中村屋「創業者ゆかりの人々」)。

昭和11年(1936年)8月1日、妻の操子が死んだ。和が紹介した妻である。和自身はその4年前、昭和7年(1932年)5月に世を去っていた。晩年の和が脳溢血で寝たきりになったとき、操子は和の好きな食べ物を作って見舞いに通っている(松本市歴史の里、前掲)。木下夫婦が結婚したときはいろいろあったが、三人の行き来は途切れなかった。

最後に評伝を書いたのは「島田」

操子を見送った翌年の昭和12年(1937年)の春、木下は「島田三郎伝」の執筆を始める。島田三郎は、毎日新聞の社長として木下を紙面に迎えた人物である。大正12年(1923年)に島田が世を去ったあと、木下は『島田三郎全集』全5巻の編纂にも加わっていた。昭和12年の秋に発病し、父の死病と同じ胃がんと診断される。明治史の仕事は胃がんの進行によって中断した(『日本大百科全書』)。11月5日、東京市滝野川区西ヶ原、いまの東京都北区西ヶ原の自宅で死去。満68歳だった。

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辞世として遺したのは「何一つ もたで行くこそ 故(ふる)さとの 無為の国への みやげなるらし」。

何ひとつ持たずに行くことが故郷である無為の国への土産になるだろうという一首である。「無為の国」は静坐を説いた岡田虎二郎が使った言葉で、この歌は松本市城山の顕彰碑に刻まれている。合切袋ひとつを遺して死んだ田中正造の枕元に、24年前、1カ月立っていた人の歌でもある。