入江為守は公家出身で、妻が白蓮の腹違いの姉。つまり白蓮の義兄に当たる。東宮侍従長とは当時の東宮(皇太子)、のちの昭和天皇に仕える侍従のトップ。柳原家は義光の父、前光(さきみつが戊辰戦争で活躍し、明治維新後伯爵に。柳原二位局はその妹の愛子(なるこで、宮中に入って大正天皇の生母となった。

 白蓮は前光の妾腹(しょうふく)の子で義光とは異母兄妹だが、大正天皇とはいとこの関係になる。東朝の記事は「處(処)女の誇りを早くも捨てゝ 金の力に引かれつゝ再婚の筑紫へ」の中見出しで白蓮の経歴に移る。

 深窓にはぐくまれた燁子姫は16の若さで京都・上賀茂の北小路子爵家に縁談があり、処女の誇りを捨てて輿(こし)入れした。翌年17歳の春には一子をもうけて母と呼ばれるようになったが、故あって北小路家を去らなければならなくなった。子を捨てた母としての憂愁は忍ぶにはあまりあり、涙に浸りながら寂しい生の執着にひかれていた。

 その間、麻布の英和女学校に通い、佐々木信綱博士の「竹柏園」に歌の門をたたいて、寂寥から来る尽きせぬ悲しみを慰めていた。「十五過ぎ泪(涙)の色も紅(あこ)うなりてわれたらちねを怨(恨)みまつりし」「殊更(ことさら)に黒き花などかざしたる己(おの)が十六の涙の日記」などは、その頃の心持ちを詠んだ告白。

(義)姉である柳原伯爵夫人・はな子の燁子への同情は極めて淡かった。27歳の春の明治44(1911)年、柳原家の姻戚である子爵家の口添えで2度目の人妻になるため筑紫へ落ちたのも伯爵夫人から切り出したことだった。坑夫あがりの夫・傳右衛門氏は52歳、燁子は27歳。名門に生まれて才気煥発の美しい新夫人は、ほとんど目に一丁字(いっていじ)もない*老年の男性に生を託した。山と積まれた千両箱の富の力に伯爵家の心も動かされたといわれる。「結納金2万円(現在の約1600万円)なり」。そういったうわさが南から北へ、北から南へ伝わった。
*「目に一丁字もない」=無学で読み書きができないこと

 白蓮の最初の結婚相手は、公家出身の北小路資武(きたこうじすけたけ)。英和女学校は現在の東洋英和女学院で、ここでのちに『赤毛のアン』の翻訳で知られる村岡花子と出会ったことは『花子とアン』で描かれた。

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25歳で傳右衛門と「24歳差婚」

 佐々木(佐佐木)信綱は三重県出身の日本の代表的歌人で、「竹柏会」は佐々木が1898(明治31)年から主宰していた短歌結社。柳原義光の妻は花子とも表記される。結婚当時は満年齢で傳右衛門50歳、白蓮は25歳。24歳9カ月の年の差だった。

白蓮と傅右衛門の結婚写真(『恋の白蓮夫人』より)

 東朝の記事は伊藤家での白蓮の生活を描写する。