今から105年前、1921年10月。当時の天皇(大正天皇)のいとこで「大正三美人の一人」とうたわれた歌人の柳原白蓮(当時36歳)が、7歳年下の少壮弁護士・宮崎龍介と恋に落ち、24歳余り年上の「炭鉱王」の夫・伊藤傳右衛門への「絶縁状」を新聞紙上で発表して失踪した。報道は過熱し、社会現象にまでなったが、その中でいくつかの重要な真実が見えなくなった。それは何か――。
当時の新聞記事は見出しはそのままに、本文は適宜現代文に直して整理。差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。「柳原燁子」「伊藤燁子」「宮崎燁子」などの呼び名もあるが、記事中以外、地の文は「白蓮」で統一する。(全4回の2回目)
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「教養にあふれた高貴な華族のお姫さまが、年の離れた野卑で無教養な百万長者に金で買われていく悲劇」。その構図はその後もこの事件を一色に染めたまま、「伝説」をいまに伝えている。東京朝日(東朝)には白蓮と龍介の恋の経緯に詳しく触れた記事もある。
出会いのきっかけは…
青春の力に戀(恋)の芽生え 「指鬘外道」の出張打合せが縁の初め 忘れ難き別府の一夜
こんこんとして湧き出る夫人の詩才は自由を求め、真の愛に到達すべき対象を求めたものが多かった。筑紫の歌人・白蓮の名はいやがうえにも高くなった。たまたま大正7(1918)年の雑誌「解放」に新作脚本「指鬘外道」を発表した。その「解放」の編集をしていたのは宮崎龍介君ら、吉野(作造)博士を中心とする(東京)帝大法科(大学)「新人会」の一派だった。
この脚本は評判がよく、単行本として刊行することになったので、打ち合わせのため、別府にいる白蓮夫人のところに派遣されたのが宮崎龍介君で、これが二人が知り合う機会となった。
白蓮は1915(大正4)年に最初の歌集『踏絵』を刊行。この時、初めて「白蓮」を名乗った。1919(大正8)年には詩集『几帳のかげ』と第2歌集『幻の華』を出し、愛を求める心情を赤裸々に詠んで歌人として名前を知られるようになった。
「指鬘外道」は、のちに釈迦の弟子となるアングリマーラのことで、「100人殺して指を集めれば救済される」と誤って信じ込まされ、多くの人を殺害した。



